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【Opera】東京二期会『魔弾の射手』

コンヴィチュニー演出について。これまでに観た『サロメ』や『エフゲニー・オネーギン』、『皇帝ティトの慈悲』といった作品で味わったような興奮を感じられなかった。例えば、隠者が客席にいて拍手や花束を贈るというメタ構造や、ヴィオラ奏者(サラ・オレイン)が舞台上に登場し悪魔ザミエルとして音楽を奏でるシーン、またラストで「オペラの舞台が終わったあと」の様子が繰り広げられるなど、彼らしい様々な手法が盛り込まれてはいたが、そのどれもが個人的には「ほとんど響かなかった」ことをどう捉えればよいのか。やりたいことはわかるのだけれど、知らず知らずどんどん引き込まれていくという瞬間は最後までついに訪れなかった。それはなぜなのか。

はっきり言おう。答えは「音楽」にあったと思う。

最初に断っておくと、アレホ・ペレスの指揮はよかった。作品固有のロマンティシズムを充分に表現しながら、演出の現代的側面にもきちんと目配りをする。オペラ指揮者としての力量を存分に示した。読売日響もペレスの棒によくこたえ、豊潤な響きを生み出していた。問題は歌のクオリティである。音程が不安定だったり、ドイツ語歌唱が全くドイツ語に聴こえない歌手が多い。いうまでもなくオペラは「音楽」なのだ。音楽と演出が融合してこそ、そこにリアリティが生まれ、意味が生じる。今回の音楽は、コンヴィチュニーが用意したはずの作品の「意味」に到達することはできなかったといわざるを得ない。

また、『魔弾の射手』はジングシュピールの要素が強い作品なので、日本語で演じられたセリフ部分の芝居が、全体の印象に大きな影響を与えていていたことも指摘しておきたい。この「芝居」ということに関してはザミエル役大和悠河を絶賛する向きもあるようだが、「ジングシュピール」という視点からはあまりにも距離がありすぎたように思う。伝えられるように彼女の(ヴィジュアルも含めた)存在感に演出家は触発されたのかもしれないが、常に現代に生きる私たちにとって真摯な問題意識を突きつけてくる従来のコンヴィチュニー演出に感じたような「リアリティ」を感じられなかったのは、宝塚仕込みの徹底してフィクショナルな演技に関係があったともいえるのではないか(彼女の演技のクオリティが高い低いという話ではない。念のため)。

これまで二期会とコンヴィチュニーのコンビには唸らされることが多かっただけに、残念な思いが残る。また、二期会の歌手の中には素晴らしい能力を持った人たちが多いと知っているので、なぜという気持ちも大きい。今回のキャストでいえば、アガーテの嘉目真木子が安定した歌唱を披露していたが、彼女レベルの歌手を揃えられれば結果は大きく違っていたことだろう。例えば、去年日生劇場で上演された『こうもり』は、同じく日本語のセリフにドイツ語の上演というスタイルだったが、セリフも歌唱も非常に高レベルだった。もちろん、『こうもり』はこれまで二期会が幾度となく上演してきたという蓄積も大きいだろう。『魔弾の射手』は上演機会の少ない作品であるだけに、歌の難易度も高かったのは間違いない。であるならば、もう少しベテランの歌い手をうまくキャスティングすることが必要だったのかもしれない。いずれにせよ、二期会の実力はこんなものではないと思うので、今後の公演に期待を繋げたい。

2018年7月21日、東京文化会館。

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