21世紀のジャポニスム〜【Opera】『Only the Sound Remains-余韻-』

 毎年、実験的な舞台作品をつくってきた東京文化会館の舞台芸術創造事業。今年はヴェネツィア・ビエンナーレとカタルーニャ音楽堂との国際共同制作で、『Only the Sound Remains-余韻-』と題するカイヤ・サーリアホ作曲の新作オペラを上演した。全体は2部構成で、それぞれ『経正』と『羽衣』という2つの能が題材となっている。プログラムに台本作家のクレジットがないのだが、演出ノートによると、東洋美術史家であるアーネスト・フェノロサが英訳した15曲の謡曲を、アメリカの詩人エズラ・バウンドが改作・編作したテクストをもとにしているとのこと。いずれにせよ「能のオペラ化」という試みだといっていいだろう。

 「能のオペラ化」といえば真っ先に思い浮かぶのが、ブリテンの『カーリュー・リヴァー』である。1964年に初演されたこの作品は能の『隅田川』をもとに、舞台をイギリスに移し替えてキリスト教的寓話として描いた。ストーリーは『隅田川』をほぼ踏襲。琴や笙を模倣した響きが随所に登場するものの、全体としては能の持つダイナミズムをブリテン独自の語法でオペラに移し替えたものといえるだろう。1964年の時点でそれが、非常に新鮮な試みとして受け止められたことは想像に難くない。

 サーリアホは1990年代からたびたび来日し、日本を題材にした作品も書いてきている。そんな彼女は今回の作品について「日本文化を模倣することは私の意図するところではない」としながらも、同時にその音楽には「(笛や打楽器が突出する楽器編成など)能舞台を彷彿とさせる要素が取り入れられている」とも語っている。弦楽合奏とカンテレ、フルート、打楽器という小編成のアンサンブルを用いている点にブリテンとの共通点をみるが、サーリアホの場合、特にカンテレの響きが特徴的だ。フィンランドの伝統楽器であるカンテレの鋭角的な響きが、確かにある種の普遍的な世界観(サーリアホの言葉を借りれば「古代の神秘の感覚」)を紡ぎ出すのに成功している。

 そうした特徴を有しながらなお、このオペラからはやはり強烈な「ジャポニスム」の発露を感じざるを得ない。映像が映し出されるスクリーン以外に徹底的に舞台装置を排したつくり、モノトーン中心の普段着のような衣裳、小編成のアンサンブルから生まれる響き、シテとワキをカウンターテナーとバリトンに当てた登場人物。いずれも「能」という芸術(あるいは今回でいえばそこに内在する「幽玄」という世界観)が西洋の人々に「日本的なるもの」としてどれほど強く刻印されるのか、を感じさせる。21世紀になってもなお、それはブリテンの時代から進歩も進化もしていないようだ。いや、むしろブリテンの方がキリスト教という文化装置への転換に成功している分、先鋭的であるとすら思ってしまう。 幽玄。間。陰翳のあわい。死生観。そして美。それらが「正しく」表現されればされるほど、ではなぜ2021年の今、それを「オペラ」として上演しなければならないのか、という疑問が頭から消えない。

 今回演出を担当したのはアレクシ・バリエール。2016年にオランダ国立オペラで初演された際のピーター・セラーズ演出をどの程度踏襲しているのかはわからないが、いちばんの疑問は映像とダンスの扱いだ。正直いってこれまでにダンスが持ち込まれたオペラに感心したことがあまりないのだが(例外はこちら)、それは「テクスト」のもつ具体性と、「ダンス」のもつ視覚的具体性がケンカしてしまうことが多いからではないかと考えている。今回も、森山開次のダンスそのものの出来以前に、やはり両者の有機的融合は感じられなかった。だがそれより問題なのは映像で、例えば「カモメが飛ぶ」というテクストのところでカモメの映像が映し出されたりするのは屋上屋を架す以外のなにものでもない。オペラにおける映像使用は今や当たり前になっているが、こうした簡素な舞台では特に「装置」としての力が要求されるだろう。

 演奏はソリスト、アンサンブルともに卓越していた。特に4人の合唱のできは素晴らしく、それだけに第1部「経正」では最初にピットに入っていた合唱が途中から舞台上に上がってきて、逆に第2部「羽衣」では村人として舞台上にいた合唱が途中でピットに下がるという動きはいらない。全体として演出が「何をしたいのか」がよくわからず、これならソリストも含め歌手は演技をせずに演奏会形式のスタイルで上演した方が、より音楽の特徴が際立ったのではないかと思う。

2021年6月6日、東京文化会館大ホール。

皆様から頂戴したサポートは執筆のための取材費や資料費等にあてさせていただきます。どうぞよろしくお願いいたします!