【Opera】新国立劇場 マスネ『ウェルテル』

オペラというとイタリア、ドイツ物が中心の日本では、フランス・オペラの実演に接する機会は(『カルメン』というお化けをのぞけば)それほど多くない。そんな中、新国立劇場は今シーズン持ってきた新制作のひとつが、マスネの『ウェルテル』である。マスネといえば、19世紀末から20世紀初頭のフランスにおける人気作曲家であり、『ウェルテル』は『マノン』『タイス』とならぶ彼の代表作。まさに「これぞフランス・オペラ」な一作であり、楽しみにしていたプロダクションだ。

『ウェルテル』の原作は、18世紀のヨーロッパでセンセーションを巻き起こしたゲーテの傑作小説『若きウェルテルの悩み』。オペラは原作の時代設定やストーリーをほぼ忠実になぞっているが、今回演出を手がけたニコラ・ジョエルの解釈も、そのラインを大きく外れるものではない。筋書きはいたってシンプルで、アルベールという婚約者のいるシャルロッテに恋したウェルテルが、悩み苦しみ抜いた末にピストルで自殺するまでを描く。ジョエルは「ドイツのプロテスタント、非常に厳しいルター派の世界観」を舞台で表現しようとしたと語っており、それは全体的に抑えられた色調の衣裳や装置にはっきりと表れている。自殺が許されなかった時代において死を選ばざるをえなかったウェルテルの苦悩を、現代に生きる私たちにもリアルに感じさせるという点で、こうした目配りは非常に重要だと思う(美術エマニュエル・ファーヴル、衣裳カティア・デュフロ)。

フランス・オペラの特徴としては、叙情的で美しいメロディ、甘美な恋のドラマ、エスプリの効いた洒脱さなどがあげられるが、作品によっては、いわゆる「メロドラマ」と捉えられがちでもある。『ウェルテル』も、連綿と続くメロディに乗って、ただただウェルテルの恋の苦悩が語られ描かれていくという点では「メロドラマ的」と思われるかもしれない。しかし、これを通俗的なメロドラマだというには、その陰鬱さや閉塞感は圧倒的すぎる。第1幕での登場シーンから第4幕の死に至るまで、ウェルテルのすがたは常に陰りをまとっているが、それはメロドラマというフィクションの登場人物というよりは、恋に苦しんだ若き日の自分自身のようである(ゲーテの小説が発表されると、ウェルテルをまねて自殺する若者が社会現象になったのはあまりにも有名だ)。再びジョエルの言葉を引けば、「ウェルテルの死は、誰しも起こりうる人生の失敗を象徴するからこそ、時を超えて、我々の心に響く」のだ。

さて、フランス・オペラをもっともフランス・オペラたらしめているものは、その「言葉の響き」である。だからこそ、フランス・オペラは非フランス語圏の人間が歌うのが非常に難しいジャンルとなっている(同じことはフランス歌曲にもいえる)。今回タイトルロールを歌ったディミトリー・コルチャックは、その点でやや難があったのは否めない。ただコルチャックのいかにもテノールらしい美声は、それをカバーして余りある効果を上げていたといえる。一方シャルロッテ役のエレーナ・マクシモワの声は、シャルロッテには少々骨太に過ぎたようだ。同じメゾでも、もう少し柔らかな響きを持った人に歌ってほしい。

歌手と同様、オーケストラからも「フランス音楽の響き」が聞こえてこなければ本当のフランス・オペラにはならないのだが、東京フィルハーモニー交響楽団はかなり健闘したと思う。しかし今一歩のところでそれが「フランス音楽」になりきれていなかったのは、指揮者によるところも大きかったのではないか。今回、予定されていたミッシェル・プラッソンが急遽ケガによって来日できなくなり、息子のエマニュエル・プラッソンが代役に立ったが、随所で「ああ、父の方が来てくれていたら…」と思う箇所があった。東フィルがピットに入った2010年の東京二期会によるベルリオーズ『ファウストの劫罰』が、ミッシェル・プラッソンのタクトによって魔法にかけられたように見事な「フランス音楽」になっていたことを思い出すとなおさら、である。

ジョエルはソフィーの夫になるアルベールを「冷たく利己的な男」と評しているが、アルベール役のアドリアン・エレートの抑えた演技は、ただの敵役ではない深みを感じさせ、ドラマに奥行きを与えていた。シャルロッテの妹ソフィーはこの陰鬱なドラマの中で唯一の明るいキャラクターだが、日本を代表するプリマのひとり砂川涼子が、澄んだ声と見事な声量、よくコントロールされた技術で好演。他歌手陣の中では、シュミット役の村上公太のよく通る美声が印象に残った。

2016年4月6日 新国立劇場



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