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僕たちに必要なのは「神」ではなく「天使」だ〜【Opera】新国立劇場『Super Angels』

 新国立劇場オペラ芸術監督の大野和士の総合プロデュースのもと、島田雅彦の台本、渋谷慶一郎の作曲による創作委嘱作品『Super Angels』の世界初演が行われた(本来は昨年初演される予定だったが、コロナ禍のため今年に延期された)。アンドロイド「オルタ3」が「歌手」として出演する、これまでにないスタイルのオペラである。この「新しい作品」の実現のために、新国立劇場は演出監修に演劇芸術監督の小川絵梨子、舞踊監修に今年8月までバレエ芸術監督を務めた大原永子を配し、3部門の共同制作のスタイルで臨んだ。さらに、総合舞台美術は世界の最先端の劇場で活躍を繰り広げる針生康が、振付は新国立劇場バレエ団の貝川鐵夫が手がけるなど、今、日本で得られるトップクラスのクリエイターたちが集まってつくりあげる「総合芸術作品」が生まれたことになる。

 物語は、「マザー」と呼ばれる全知全能のAIが支配する世界が舞台。人間は学校を卒業すると「統治」「守護」「知識」「奉仕」そして「異端」という5つの階級にカテゴライズされ、脳にチップを埋め込まれる。そして「異端」は「開拓地」と呼ばれる辺境で一生を過ごさなければならない。主人公のアキラは「異端」として開拓地へ送られるが、そこで彼の教育係となったAI「ゴーレム3」と出会う。アキラは同級生だったエリカのことを今も思い続けていて、雲や石に話しかけたりしている。ゴーレム3は、そんなアキラの「恋心」を感じとり、彼との交流を通して「カオス・マシーン」という人間の脳の記憶をイメージ化する機械を作り出す。アキラはマザーの管理から逃れて自由になろうとするが、マザーはエリカのイメージを借りてアキラを服従させようとするので、アキラは脳のチップをナイフで抉り出して身を投げてしまう。一方、開拓地で「異端」たちが反乱を起こしているとみなしたマザーは、「カオス・マシーン」を破壊して開拓地を制圧するために兵士たちを送り込む。そこに同行していたエリカは「カオス・マシーン」によって死んだアキラと再会し、ゴーレム3を守ることを約束する。開拓地に5体の土偶が天使の姿で降臨し、マザーの支配を逃れた「異端」たちは自由を獲得する。そしてアキラの魂を宿したゴーレム3とエリカは未来へ向かって踏み出す。

 オペラ初演の前に島田雅彦による小説とオペラのリブレットが発売されており、私もそれを読んだ上で鑑賞に臨んだのだが、例えば5体の土偶が天使となって降臨して人々に自由をもたらすとシーンなどは「予習」なしで観た人には何が起きているのかがわからなかったかもしれない。そもそもストーリー自体は「全知全能のコンピュータが支配する世界で、人間が人間らしさを取り戻す」という、いってみればよくあるものなのだが、島田のリブレットが「ドラマ」としてはやや盛り上がりに欠けているので、鑑賞の焦点を絞りにくい作品ではあったと思う。それを「オペラ」としての欠点とみるかどうかで、この作品への評価は変わってくるだろう。

 そこで注目したいのは渋谷慶一郎の音楽だ。私は事前に渋谷にインタビューをしのだが、そこで彼が強調していたのは「現代においてオペラとはどうあるべきなのか」というテーマである。渋谷はオペラを「人間中心主義の賜物」であると捉えており、西洋音楽の核であるオペラというジャンルに日本人が取り組むのであれば、その「人間中心主義」自体を解体しないと意味がないと考える。そこで、「ドラマ」の中心にアンドロイドである「オルタ3」を置き、さらに人間の「声」という膨大な情報量を持つものと共演させることで、逆に「人間とは何か」「人間が表現するということはどういうことなのか」という問題を照射させようと試みたのだ。

 結果的に、その目論見はほぼ成功していたのではないか。数種類のヴォーカロイドに子どもの声などを混ぜ込んで作られたオルタ3の声は一見親しみやすいのだが、それが人間の歌手の声やオーケストラの音と合わさった時には、いわゆるアコースティックなサウンドとの間にズレが生じる。また逆に、人間の「声」の持つあり得ないほどの繊細さが強調され、それは自ずと「表現」というものについて考えさせずにはおかない。オルタが歌っているテクストがよく聴き取れないという批判もみたが、私はそこに過剰な「アンドロイドっぽさ」を感じた(ヴォーカロイド「鏡音リン・レン」のわざと電気的に処理した音声を思い起こさせる)。初期のヴォーカロイド動画では歌詞がよく分からないために動画に歌詞をつける「歌詞職人」が登場し、それ自体が表現のひとつとなっていったのだが、例えば今回もそうした「歌詞職人」的な字幕表現をしてしまえばより面白かったのではないだろうか。

 前作『Scary Beauty』の時からさらに進化した今回のオルタ3は、顔の表情筋も動くようになっており、オペラグラスを覗くと笑ったり、悲しそうな顔になったり、真面目な表情になったりするさまが見てとれる。個人的にはそれがなんともいえず可愛くて、多分実際の表情よりももっと色々な感情をこちら側で読み取ってしまった気がする。一方で「箱」の問題はあって、オペラパレスの舞台空間に置くとオルタ3が相対的に小さく、途中から「もっと歌って!もっと動いて!」という気になったのは確か。オルタ3のボディの質感とか存在そのものを感じ取れるような距離の空間であれば、もっと「オペラの中にアンドロイドが置かれる意義」が強く感じられたかもしれない。

 渋谷慶一郎が書いた音楽は、時にリリカル、時に暴力的、時に虚無的、時に哲学的にと多面的でありながら、「オペラ作品」としての一貫性を保持。藤木大地(アキラ)、三宅理恵(エリカ)、成田博之(ジョージ)をはじめソリストは素晴らしいパフォーマンスをみせた。また合唱は、新国立劇場合唱団に加えて、世田谷ジュニア合唱団とホワイトハンドコーラスNIPPON(手話コーラス)が参加。特にホワイトハンドコーラスは、手話の身振りそれ自体がドラマの重要なパーツを担っており、その表現としての「強さ」に強い感銘を受けた。

 子どもたちは皆白い衣裳を身につけており、それは、彼らこそがこの世を救う「天使」なのではないか、ということを感じさせる。現実でも往々にして「母(マザー)」は「神」に成り代わろうとするが、その「母」が支配する世界から抜け出す「子ども」たちこそが、未来を拓く。アンドロイドによって「人間中心主義」から脱却してみせたとしても、「子ども」という存在に希望を見出すこのオペラの作り手たちは、やはり「人間」の可能性を、未来を信じているのではないだろうか。この作品が生まれた意味は、そこにあると思う。

2021年8月22日、新国立劇場オペラパレス。


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