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人間関係における後悔がある方へ

喉の風邪を拗らせてしまい、声がまともに出ないここ数日を過ごしています😢

皆さまも、喉の風邪や体調管理にご注意を・・・。

こんなふうに声が出なくなると、不思議となぜかいつも以上に"感じたことを残しておきたい"という気持ちになる。

そして、自分の声で話せていた当たり前の日常に有り難さを感じるようになる。当たり前は当たり前ではない、といつも散々自分で言っているのに…。

人って、なぜこうやって無くして気づくのだろうと思いながら。


だけど、その愚かさがあるからこそ、今世こうやってまた生まれてきたんだろうなぁ、とそんな壮大なところまで考えが行く 笑

だけど至って真面目な話。

そうすると、健康であることや元氣でいることの有り難さにもまた改めて気づく。

いつか「もっと健康に気を遣えばよかった…」と後悔することがないように、少しでも少なく済むように、常日頃からの自分の生活を今年は更に見直したいなと思う。

「こうしておけばよかった」という後悔。


それは、人間関係の中でもあることで。

今でこそ私自身、人間関係で後悔することはとても減ったが、「あの時、ああ言えばよかった」「言わなければよかった」「あの時、ああすればよかった」「しなきゃよかった」という人間関係における過去の自分の言動への後悔を、以前はよくしていたものだ。

20代後半〜30代にかけて今まで親しくしていた友人や知人や一時は家族との関係性も含めて大きく変わっていった。それは私自身が"変わる"選択をしたからこそ、自ずと今までの人間関係が変わっていくのは当然のことだった。

頭ではソレをわかっていても、これまでの関係性に対して、離れることも、別々の道を進むことになったことに対しても、消化しきれない自分の感情がまだそこにあるという現実に幾度となく自分の中で遭遇したなぁと。

そして、その度に自分の中に落とし込む作業をジャーナリングや色々な術を通してやってきた。

例えば、「縁」という言葉がある。

この「縁」を私たちは、出逢いの場面で使うことが多い。

だけど、本当は離れてもどんなカタチであれ別々の道を歩むことになったとしても、、それは「縁」なのだと思う。

出逢うことも離れることも、縁。

なぜなら、その別れや離れることを通して、そこには必ず意味や教えがあったから。

出逢った以上は、必ず別れる時が来る。

そう考えると、出逢いも別れもすべてがご縁であり、どんなカタチであったとしても、気づきや学びを与えてくれたことに、最終その人やその環境への感謝が生まれてくる。

もちろん、その出来事や関係性の中で、相手に対してなのか、はたまた自分に対してなのか「許し」が生まれるまでには、ものすごく大量の時間を要する場合もある。

だけど、その経験を通して最終的に感謝が生まれると、すべて必要なご縁だったと感じる。

今は消化しきれない想いがあったとしても、生きている中でその意味を見出したいと心が思った時に、少しずつ見出せばいい。

焦る必要もない。

そんなことを感じた、今日この頃^^

 愛車は見事に雪にデコレーションされました🧁❄️もふもふ。


【今日のシツモン】

あなたにとって「ご縁」とは?
縁という言葉をどんなふうに意味づけしますか?


今日もありがとう。
いつもありがとう^^