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最も信頼すべきものは、継続されている個の営みである

最近、日向夏(ひゅうがなつ)という蜜柑にはまっている。
ふわふわの白い皮に甘みがあって、見かけよりもずっとジューシーで、びっくりするほど甘い。
見かけはレモンのように黄色いので、何となく酸っぱそうだなあと手を出さずにいたのだが、ある日、思い立って買ってみたら、とんでもなく美味しくて、酸味も少なく食べやすくて、すっかりはまってしまった。
つくづく果物は見かけによらないものだと思う。

見かけで判断してはいけないのは、現代音楽も同じである。
5月19日(水)には杉並公会堂小ホールに、低音デュオ第13回演奏会に出かけた。松平敬さん(バリトン)と橋本晋哉さん(チューバ、セルパン)のお二人が結成したのは2006年だから、もう15年も続けていることになる。

こうやって地道に長年続けている個の営みが、私はとても好きだ。名のある大企業のプロジェクトだから信用する、というのではなく、継続する個人の意思だからこそ信用したい。

低音デュオのコンサートに行って、期待外れだったことは一度もない。常に期待よりもずっと面白い。
松平さんのバリトンは聴くたびに、どんどん艶を増している。橋本さんのセルパン&チューバも、音の表情のバリエーションがすごい。

低音デュオの醍醐味は、世界に二つとない、この二人による独立的な線が、どのように絡み合うかという、両者の関係性の面白さにある。

第一印象としては、おそらく誰にとっても異形のデュオだろう。
一体、音楽として成立するのかしないのか、というくらいに珍しい組み合わせである。

だが考えてみると、声(言葉)と器楽で、2本の線がどう絡み合っていくかというのは、西洋音楽の伝統の大原則・根底でもある。
低音デュオが挑戦的なのは、鍵盤楽器や撥弦楽器のように、豊かな和声を鳴らすという(響きの美しさに逃げ込む)技が一切禁じられている点にある。

これは最小限の裸形の音楽のかたちであり、プリミティヴでラディカルな、一切のごまかしが効かない、剥き出しの音楽であることを、作曲家たちに過酷に要求する、恐るべきデュオでもある。

10数年前に松平さんの声を初めて聴いたときに、私がすぐに思ったのは、この声は、それ自体が批評性を持っているということだった。本気なのか冗談なのか、とぼけたようなニヒルなような、飄々とした、しかし不思議な色気のある声。昭和のヒーローものの主題歌を歌わせてみたいような声だ。
そこに、橋本さんの芋虫のようなチューバまたはセルパンが絶妙に絡む。シュールとしか言いようのない光景である。誤解しないでもらいたいのだが、私は大の昆虫好きなので、芋虫のようなというのは、最高の賛辞なのである。

同時代の作曲家たちが低音デュオのために書いた曲は、みなその作曲家たちの本性が全部露わになっている。
手続きの緻密さを重んじるのか、詩の内容にどうフィルターをかけるのか、演劇的に行くのか、社会批判を帯びるのか。古楽的にやるのか、アヴァンギャルドを突っ走るのか。いずれにせよ、ああなるほどこういう作曲家なのか、ということが如実にわかる。
低音デュオは、いまこの国で作曲されている同時代の音楽を端的につかむことのできる、唯一無二の奇妙な、しかしきわめて優れた、最小単位の装置として、機能し続けている。

今回演奏された曲目の詳細はこちら
どの曲も大いに楽しめたが、個人的に一つだけ挙げるなら、伊左治直(いさじ すなお)さんの「腐蝕のベルカント」と「羊腸小径」だろうか。
これは、低音デュオから想起される「フランケンシュタインと怪物」のイメージからスタートして作られた不思議な魅力を持つ作品で、伊左治さんからこの曲のために作詩をお願いしたという新美桂子さんの言葉の錬金術が良かったことも大きい。

いまほど言葉が衰弱し軽んじられている時代もない。
だからこそ、歌手が日本語でうたうライブな場所は、同時代の作品であればあるほど、言葉との格闘が欲しい。無論、今回どの作曲家もその痕跡を強く残していた。

言葉への信頼をもう一度取り戻すための場所。低音デュオのレパートリーを、そういう言い方で括ってもいいと思う。

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