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男が大人になるということ 〜「国境の南、太陽の西」を読む〜

 村上春樹の中編小説の中では、僕は「国境の南、太陽の西」が一番好きだ。

 初めて読んだのは、多分20代の終わり頃だったと思う。「切ない小説」だな、というのが、ファーストインプレッションだった。それ以上でも以下でもなく、当時の僕にそれほど訴えかけてくるものはなかった。

 次に読んだのは、30代も半ばを過ぎてから、ちょうどこの小説の主人公である「ハジメくん」と同年代になってからだ。この時、僕はこの小説の魅力を再発見することになる。この物語には「切ない」以上の何かがあり、それが僕の胸を鋭く撃つのを感じた。だがそれを明確に言語化することは当時できなかった。

 そして今、3回目(だと思う)を読み終え、ようやく僕はこの物語のテーマみたいなものをある程度明確に捕捉し、その素晴らしさをそれなりに言語化できるようになったと思う。今回はそれを書いてみたい。

 〜以下ネタバレになるので未読の方はご注意下さい〜

「国境の南、太陽の西」は、村上春樹のリアリズム小説の一つであり、主人公である「ハジメくん」が、三人の女性「イズミ」「有紀子」「島本さん」との邂逅(と別れ)を通じて大人になっていく、という筋だ。この「ハジメくん」は中々どうしてどうしようもない男であり、自分の中の「欠落」「渇き」を埋めるためと称して、女性たちと関係を持っては彼女たちを傷つけ、損なっていくのだが、最終的にはそれが「幻想」であることに気付く。

 多かれ少なかれ、男は「幻想(ファンタジー)」を追い求める生き物だと思う。特に「理想の女性」「自分にとって100%の女性」という幻想は、世の多くの男が求めてやまない幻想であり、それを追い求めることは人生の重要な命題の一つだと考えている男は結構いるような気がする。ちなみに僕の理想の女性は10代の頃から一貫して「ティファ・ロックハート」であり、まさに「ファイナルファンタジー」だ。

 話が逸れた。世の少なくない数の(それもいい歳をした)男が、「ハジメくん」のように、「理想の女性」が「幻想」であるということに気付きもせず、虚しい試行錯誤を繰り返しているように思う。終盤、妻である有紀子が、彼を「可哀想な人」と称したのは、実に正鵠を射た表現だ。女性にとっては、そんなものが幻想に過ぎないことは、おそらく自明の理なのだろう。

 この小説の素晴らしい点は、「幻想」に気付いたハジメくんが、さらに「今度は、僕が誰かのために幻想を紡ぎ出していかなくてはならないのだろう」というところにまで到達する点に尽きると思う。主人公が最後の最後にここまでの成長(と言っていいと思う)を見せることが、「国境の南、太陽の西」を単なるメロドラマ、「切ない小説」に終わらせず、読後感を前向きなものにしている。

 「理想の女性」が「幻想」であるという認識を得ることは、我々男にとって、ある意味「キツイ」ことだと思う。人生の目標を失うことになる、とまで考える人も、もしかしたらいるかもしれない。しかしその認識の先には、新たな地平が拓けている。それは、ハジメくんのように「自分が誰かのために幻想を紡ぎ出す」ということかもしれないし、そうではないかもしれない。でもその通過儀礼を経ないことには、男は大人になれない、と僕は思う。

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