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日常の写真と25歳に感じる淡い期待。

どうも松川直城です!

雨降りが続いてますね。梅雨が明けぬまま、八月を迎えるのでしょうか☂️

そして、その八月には僕の誕生日があります。今年25歳になります。20代後半のスタートです。

なぜかわからないのですが、この「25歳」というものに、とても惹かれていて、なぜか、そこに淡い期待を持っている自分がいるのです。


たかが、一歳、年をを取るだけなのかもしれないけど、この一歳で僕にかかってる呪いの類いがとれる。そんな期待を持っちゃうのですね。

僕は、誕生日が来る度に、今年こそ、何かが変わるじゃないのかな。そんな期待を繰り返してきました。そして、変わらぬ現実に、見事に、その期待を打ち砕かれてきました。自分から変わらないと、現実は何も変わらない。そうわかっていても、押し寄せてくる苦しみという波に、ただもがき続ける日々の繰り返し。

常に苦しみの状態にさらされ続けられた僕は、いつしか、「この先に大きな幸せが待っている」そう思うようになりました。それと同時に、小さな幸せ、ささいな幸せでは納得いかないような思考回路になっていったのです。しかし、最近は、これはもはや
、好みの問題なのではないかと思うようになりました。つまり、小さな幸せを採用しようが、大きな幸せを夢見ようが、どちらでもよい。でも、僕は、バカにされようが、何と言われようが、大きな幸せの存在を信じたい。それでいいんじゃないかと。

ただひとつ、信じていることは、100の苦しみを感じられるということは、100の幸せも感じられるということです。それが感受性なのではないでしょうか。1の苦しみしか感じらない人は、1の幸せしか感じない。苦しむことができる才能は、幸せを感じられる才能であるということ。
今、現在、その感受性が100の苦しみで覆われていたとしても、何かのきっかけ、拍子に、パッと、100の幸せに転じる瞬間が起こるかもしれません。
僕は、それを信じているのかもしれません。

「期待をするな」とよく言われます。でも、期待をするということは、その不明瞭な未来の可能性から、エネルギーをもらうということだと思います。信じるということに、ちょっと似ている気がします。この期待する、信じるということは、その不明瞭な未来を鮮明に変える力になると思うのです。

「25歳」どうしてここに惹かれるのでしょうか。ここから何かが転じる予感なのかもしれません。はたまた、いつものごとく、打ち砕かれるのか。それは、わからないし、つまりところ、僕次第なのかもしれません。ただ、良くなることを信じています。

最後まで読んでくれてありがとう😄

良かったらまた読んでね✨

それではまたね👋

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