当事者の語りと当事者演劇
ここ暫くアメリカでは訳者の当事者性をどう扱っていくかが大きな問題となっている。
詳しくはこのnoteを参照して欲しい。良く纏められている。
他方、6月のビックイシューで「当事者演劇」についての特集が組まれた。
当事者演劇とは関根淳子氏が作った造語で
を意味する言葉。
ビックイシューで組まれた特集のインタビューの中で彼女は、
なるほど、たしかにそうだと思える。
しかし、インタビューの中にはこんな言葉もあった。
当事者が実名顔出しで語る状況は今SNSをはじめとして多くのメディア上で見る。
僕はそこに個人を守る媒体を噛ませるべきだという立場にる。
なので演劇や物語など、キャラクターが特定の状態について語ってくれるという状態はとても良いカタチだと思う。
でも、世間はそれでは信憑性が無いなどの理由で中々受け入れられず、作り話と言われて心に響かないと言われてしまう。
社会は当事者に何を求めているのだろうか?
ここで、当然出るであろう「当事者自身が語りたがっている状況はどうするのか?」という疑問に関してこちらから逆に問うてみたい。
果たしてどれだけの当事者達が自ら語りたがっているのだろうか?
自らを語ることによって「自身の社会的価値」を見出すという状況は当事者に徒に語らせる状況を生む。
逆に、彼らが当事者として生きないでいられるという世界線はあるのだろうか?
その選択がある中で、「当事者になる*」ことを選択するのは個人の自由だ。
(上野千鶴子さんのケアの社会学から引用)
しかし、環境的に選べない状況がある場合、それは選択があるとは言えない。
社会が当事者に問題を語ることを求めている時点で彼らには当事者として生きる以外に尊厳が保たれる術は無い。
そんな構造の中で語る当事者達をみてまだ「当事者が自ら語りたがっている」と言えるだろうか?
僕は言えない。
当事者演劇。
きっと当事者にとって表現手段の一つとなるだろう。しかもとてもパワフルな。
しかし、それは今の危ういあり方の中で当事者自身を傷つける諸刃の剣となる可能性をよく肝に銘じて行かなければならない。
決して、当事者達に語らせる口実にしてはならない。
今回僕は「当事者演劇」というものを知ってその可能性と力にとても期待すると共に、誤用による危険性を同時に感じた。
その想いを備忘録として残しておきたい。
きょうはこの辺りで。また。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?