選択的夫婦別姓訴訟( 最高裁大法廷判決令和3年6月23日)における立法裁量論に対する批判

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/412/090412_hanrei.pdf


なお,夫婦の氏についてどのような制度を採るのが立法政策として相当かという問題と,夫婦同氏制を定める現行法の規定が憲法24条に違反して無効であるか否かという憲法適合性の審査の問題とは,次元を異にするものである。本件処分の時点において本件各規定が憲法24条に違反して無効であるといえないことは上記のとおりであって,この種の制度の在り方は,平成27年大法廷判決の指摘するとおり,国会で論ぜられ,判断されるべき事柄にほかならないというべきである。

令和3年6月23日最高裁大法廷判決

一 立法裁量論とは


 いわゆる立法裁量論である。立法裁量論とは、憲法訴訟において裁判所が国会の立法行為を尊重し、自らが判断するのを控えて、当該行為を合憲とするべきである範囲が存在するという法理をいう。
 
 三権分立の観点から立法権は国会に属するため、国会には立法裁量が存在する。もっとも法律は憲法に適合して作られなければならないから、憲法に反していれば違憲判断を下されることになる。この審査をするのが司法権を有する裁判所ということになっている。
 もっとも憲法に違反するか否かの実質的な判断に入る前に、当該紛争内容が司法判断に適しないとして、訴えを却下する場合がある。
 民事訴訟では、「訴えの利益」の有無に関する事項である。

 立法裁量論については、当該法律が違憲かどうかの実質判断を下す際に持ち出す法理なので、形式的には訴えの利益の有無に関するレベルではないかもしれない。
 しかし、裁判所が立法裁量論を持ち出すときは、実質的には裁判所で審理しないというに等しく、門前払いといってよい。平たく言えば、裁判所ではなく国会で扱いなさいと言っているのである。

 従来から、日本の裁判所は憲法問題についての判断に謙抑的であると評価されてきた。選挙でえらばれた国会議員で構成され、国民の意思を反映している国会に対し、司法試験を突破して資格を与えられたに過ぎない裁判官が属するいわゆる非民主的機関である裁判所が頻繁に違憲審査権を行使し法律を違憲と判断するようでは、民主国家が成り立ちえないということは理解できる。したがって、原則において裁判所は法律の違憲審査に対して謙抑的であるべきだ。

二 立法裁量論が認められない場合とは


1 では、今回の夫婦別姓訴訟ではいかなる権利が問題となっているだろうか。選択的に夫婦別姓をもとめる権利が憲法上の権利といえるか、問題となる。

2 この点について、最高裁は「婚姻及び家族に関する事項は,関連する法制度においてその具体的内容が定められていくものであって,当該法制度の制度設計が重要な意味を持つものであり」としていることから、氏に関する人格権の内容は法制度をまって初めて具体的に捉えられる性質のものと解している。したがって、選択的夫婦別姓制度自体が法律として設けられていない以上、権利と認められないことになる。
 そして、夫婦別姓制度を設けるには、「国の伝統や国民感情を含めた社会状況における種々の要因を踏まえつつ,それぞれの時代における夫婦や親子
関係についての全体の規律を見据えた総合的な判断によって定められるべきものである。したがって,夫婦の氏に関する法制度の構築は,子の氏や戸籍の編製の在り方等を規律する関連制度の構築を含め,国会の合理的な立法裁量に委ねられているのである。」として立法裁量論へと導かれることになる。

3 しかし、氏のもつ利益について検討を加えることなく、安易に立法裁量論を唱えることは、氏を変更せねばならない少数者の利益を過小評価し「取るに足りない利益」と判断して多数者の利益を維持していることにならないだろうか。この構図がまさに人権侵害を誘発する構造とそっくりなのである。

 裁判官三浦守反対意見が言うように、「氏は,名とあいまって,個人の識別特定機能を有するとともに,個人として尊重される基礎であって個人の人格の象徴であることを中核としつつ,婚姻及び家族に関する法制度の要素となるという複合的な性格を有する」と構成されるならば、「婚姻の際に氏を改めることは,個人の特定,識別の阻害により,その前後を通じた信用や評価を著しく損なうだけでなく,個人の人格の象徴を喪失する感情をもたらすなど,重大な不利益を生じさせ得る」として、婚姻の際に婚姻前の氏を維持することに係る利益は個人の重要な人格的利益として保障されるべきである。


 さらに、裁判官宮崎裕子,同宇賀克也の反対意見は憲法13条で保障される具体的な権利へと踏み込む。
 「氏名に関する人格的利益は,氏を構成要素の一つとする氏名(名前)が有する高度の個人識別機能に由来するものであり,氏名が,かかる個人識別機能の一側面として,当該個人自身においても,その者の人間としての人格的,自律的な営みによって確立される人格の同定機能を果たす結果,アイデンティティの象徴となり人格の一部になっていることを指すものである。これは,上記において述べた人格権に含まれるものであり,個人の尊重,個人の尊厳の基盤を成す個人の人格の一内容に関わる権利であるから,憲法13条により保障されるものと考えられる。」

 そして、氏名に関する人格的利益への侵害は、「公共の福祉による制限」に正当性があるといえない限り不当な侵害にあたるとするのである。

「この人格的利益は,法律によって創設された権利でも,法制度によって与えられた利益や法制度の反射的利益などというものでもなく,人間としての人格的,自律的な営みによって生ずるものであるから,氏が法制度上自由に選択できず,出生時に法制度上のルールによって決められることは,この人格的利益を否定する理由にはなり得ない。」と指摘して、法律の制定を待ってはじめて権利として認められるとする見解を批判するのである。


 さらに、法律が人格的利益を保護しているのではなく、法律制定前に存在している人格的利益を制約する構造についても的確に指摘している。

「法制度によって具体的に捉えられるのは,この人格的利益の内容ではなく,この人格的利益に対して法制度が課している制約の内容にすぎない。以上の考え方を踏まえると,本件では,法律によって氏あるいは氏名に課されている制約が上記のような性質,内容を持つ人格的利益に対する不当な侵害に当たるか否かの検討が求められているということになる。そして,そうであるからこそ,本件では,氏名に関する人格的利益の由来,性質を明らかにした上で,夫婦同氏を婚姻成立の要件とするという本件各規定によって課されている制約に合理性があるか,公共の福祉による制限として正当性があるかが問われなければならない」と指摘している点は、まさに司法が求められている課題に対して正面から向き合った内容と言えるだろう。


三 立法裁量論は裁判所にとって便利な道具


 三権分立の観点から立法権への司法権の謙抑的な姿勢は一見して適切なように見え、裁判所にとっても国論を二分するような政治的紛争に巻き込まれなくても済むので、とても便利な論理である。
 しかし、侵害されている人権の内容を見誤ると、いつまでたっても国会で議論が進まない間、少数者の人権は抑圧され侵害された状態が継続することになる。
 権利を侵害された少数者は多数決原理機関である国会では、もはや解決できないからこそ法原理機関である裁判所に異議申し出をしているのであり、国会での議論による性質のものである」という立論ではいつまでたっても少数者の権利侵害を救済することはできない。これでは裁判所の存在意義自体が問われることになるだろう。
 すくなくとも、反対意見のように、いかなる権利が侵害されているのかを明らかにする姿勢が裁判所には求められていると思われる。



 





 
 


参考文献 
中京大学中京法学28、29
    「司法審査と公共政策」宇佐美 誠

早稲田大学法学会誌第42巻(1992)
「立法裁量に関する一考察」 木原 正雄

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