検閲の禁止(憲法21条2項前段)について


1 序論

 裁判所による事前差止が憲法21条2項前段にいう「検閲」にあたるか。憲法21条2項は検閲の禁止を規定しているものの、具体的に何が検閲に当たるのか明示しているわけはないため、検閲の意義が問題となる。

2 分析

 (一)検閲の意義について、判例は検閲の意義を行政権が主体となって、思想内容等の表現物を対象とし、その全部または一部の発表の禁止を目的とし、対象とされる一定の表現物につき網羅的一般的に、発表前にその内容を審査した上、不適当と認めるものの発表を禁止することを特質として備えるものをいうとする。(関税定率法事件判決最高裁昭和59年12月12日 北方ジャーナル事件最高裁 昭和61年6月11日)

 (二)これに対し学説においては、大きく分けて狭義説と広義説が対立する。狭義説は、21 条 2 項前段は、「検閲」の絶対的禁止を定めたものであるとしたうえで、21 条 2 項前段の「検閲」とは、行政権が主体となって行うものに限定され、裁判所が主体となるものはその定義には包含されないとする。

 他方、広義説は、21 条 2 項前段の「検閲」は「事前抑制」と区別されるものではなく、その主体は行政権に限定されず広く公権力とし、裁判所による差止命令も同規定の「検閲」に含まれるとする。ただ、広義説の代表的学説は、裁判所による事前の差止命令についてはそれが 21条 22項前段の 「検閲」 に該当するとしても、例外が認められるとする一方、行政権による検閲は絶対的に禁止されると論じている。

3 (一)21条2項前段の趣旨

 思うに、憲法が、表現の自由につき、広く保障する一般的な規定を21条1項に置きながら、2項前段においてあえて検閲禁止の規定をおいたのは、検閲がその性質上表現の自由に対する最も厳しい制約となるものであったからである。とすれば、21条2項前段の趣旨は、公共の福祉を理由とする例外の許容をも認めない趣旨を明らかにしたものと解すべきである。

 (二)検閲の主体について

 この趣旨の解釈については、私は最高裁判例と同一の立場に立つ。しかしながら、最高裁は、検閲がもつ表現の自由の抑制的効果を意識し、例外を認めない検閲の絶対的禁止を主張しながら、検閲の主体を行政権に限定することによって、検閲禁止の効果が及ぶ射程範囲を著しく狭めている。確かに歴史的に行政権が主体となる検閲により表現の自由が制約された例は多い。しかし、司法権が行政権や立法権に追随して、市民の表現の自由に対する制約にまったく加担してこなかったわけではない。司法権が常に公平で、市民の自由権を保障する存在であると考えるのは幻想である。表現の自由に対する抑止的効果の強い検閲制度の性質に鑑みるのであれば、検閲の主体は広く公権力を含むと考えるべきである。

(三)検閲の対象について

 検閲の主体が公権力とするとしても、検閲の対象物を、思想内容等の表現物に限るか、広く表現内容とすべきか問題となる。

 この点につき判例は、思想内容等の表現物を対象とする。これに対し、学説には広く表現内容とすべきとするものもある。

 思うに、インターネットが発達した現代社会では、発表される表現内容や行為は玉石混交であり、リベンジポルノや名誉棄損発言、ヘイトスピーチなど主観的には事前に規制したほうが良いのではないかと思うようなものも多い。発表されてしまっては被害者に甚大な被害をもたらす場合も多いと思う。

 しかし、自由な討論においては、ささいな誤解や誤りも含めて、千差万別の表現行為が存在するのはそもそも避けがたいものである。何が正しくて何が誤っているのかは発表された時点では明らかでない場合も多く、討議を重ねて明らかになるケースも少なくない。壊れやすく傷つきやすい表現の自由を保障するためには、たとえ誤解や誤りや悪意にある表現行為であっても表現内容としては保障されるべきである。それは、思想内容等の表現物以外の表現内容であっても同じであると考える。表現の自由が壊れやすく傷つきやすい自由権であることに鑑みると、あらゆる事前の規制についてはできるだけ抑制的に考えるべきであって、表現行為の被害者は、事後的規制によって救済もしくは保護すべきと考える。

 したがって、検閲の対象についても、広く表現内容を含めるべきと考える。

(四) よって、裁判所による事前の差止も検閲に該当すると考える。

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