政治と道徳 マキァヴェッリの君主論――政治と道徳の分離について


 キケロに代表される従来の政治観は道徳的なものは合理的である(道徳と政治の一致)として、君主に求められる資質は①誠実さ、②慈悲深さ、③気前のよさ、とされた。これに対して マキアヴェッリの政治観は道徳的なものが合理的とは限らない(道徳と政治の不一致)として、 君主に求められる資質は①狡猾さ、②冷酷さ、③けち、とする。

 仮に、政治の場で正義を貫こうとすると、いずれ地位と権力を失う結果になる。したがってライオン(軍事力)と狐(奸策)の使い分けが必要であるという。また慈悲深さはかえってより冷酷な結果を招く場合もある。だから、君主は愛されるよりも恐れられる方がよいのだという。さらに君主の気前のよさは税金によって賄われるため、領民を重税で苦しめる結果になるだろう。それゆえ君主は気前がよいよりもけちである方がマシなのである。政治的な目標を達成するためには時には道徳的な悪に手を染める必要もあるという。

 マキャベリが活躍したのはルネサンス期の群雄割拠するイタリアのフィレンツェであり、現代の政治状況と異なる点はあるが、いまでもマキャベリズムという言葉が残るほど、どんな手段や非道徳的な行為でも結果として国家の利益が得られるのであれば許されるという考え方は流通している。

 政治の目的が正義を実現するためのものとされた古代の考え方から、政治に独自の価値を認め政治の目的を国家の維持とし、その目的を実現するためには手段の正当性を問わないという発想が背景にある。

 現代社会では、ほとんどの先進国が民主政の政治形態をとり、民主政は手続きを重視するので、目的のみならず手段の正当性を厳格に問われるから、マキャベリが言うような手段の正当性を問わないということは難しい。

 しかし、現代でも法律の範囲であれば、非道徳的な手段を用いても政治目的を実現しようとする政治家はときどき現れることがある。

 たとえば、アメリカ大統領であったトランプの言動はアメリカ社会の分断を招いたと評されるが、意図的に自分の反対勢力やメディアを誹謗中傷することで、自己を正当化し一定の強固な支持基盤を築き政権の維持につながったと考えられる。従来であれば政治の世界で極端な言動は避けられてきた。にもかかわらず、アメリカ社会の不満を、敵対勢力を誹謗中傷することで喚起し、熱狂的な支持につなげさせた手法は、冷酷なマキャベリストのイメージと異なるが、計算されたものであると考えられる。
 2024年はアメリカ大統領選挙の年であり、共和党の候補者選びにおいてオハイオ州につづきニューハンプシャー州でも勝利をおさめたトランプが共和党の候補者となるのは時間の問題である。再びトランプが大統領になったとき、世界はどのように変化するのだろうか、予断を許さない。

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