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繋ぐ

2021年12月31日。
倉敷美観地区で50年続けられた小林融子さんの最後の営業でした。

小林融子さんは、1963年に岡山天満屋に入社しました。
すぐに岡山県民藝振興株式会社に配属となり民藝に関わり約8年。当時の奨農土地株式会社(融民藝店の大家さんです。)の社長である原玄太郎氏に、「民藝店を倉敷でやってみないか。」と声を掛けられたそうです。
岡山県民藝振興株式会社社長の杉岡泰氏の大きな支えもあり、1971年、開店に至ります。
それから50年。周りまわって今度は僕に「融民藝店をやってみないか。」と声を掛けてくださいました。
悩みの中相談した現岡山県民藝振興株式会社の杉岡和泰社長、取締役で僕が在籍した9年を共にした仁科さんのご理解もあり、この度の決断となりました。

僕自身、ここ数年思うところがありました。
横浜巧藝舎の小川康範さんがお亡くなりになったこと、岡山ではgalleryONOの小野善平さんが引退されたこと。
民藝運動真っ只中を駆け抜けた先輩方から教えていただけることが、まだまだあるのではないかと。
本やネットで得られる情報は確かにあるけれど、経験や体験を直接聞いて、体感として僕の中に残したいと思っていました。
そこに小林さんの引退のニュース、何か出来ないかと。
岡山県民藝振興株式会社先代社長の杉岡泰氏のことも僕の中で大きな存在です。民藝運動の中、民藝の普及活動としてモノの頒布し使い手を増やし、倉敷ガラスの小谷眞三氏など作り手を見出しました。「倉敷にお店を」となった時も、岡山県民藝振興としてすることも出来たのではと思いますが、小林さんを最大限バックアップし配り手を育て、「使い手・作り手・配り手」全体の普及を進めました。
「融民藝店」という名前も杉岡氏によるもののようです。
「融」という漢字は「釜で蒸す様子」を表し、溶ける・解け合う・和らぐという意味があり、「使い手・作り手・配り手」を融けて柔らかに混ざり合う様子が浮かびます。
杉岡泰、外村吉之介、原玄太郎、大原孫三郎、大原総一郎らが民藝の未来を見据えた時この「融民藝店」も、「使い手・作り手・配り手」を繋げ、拡げる場所として望まれたのではないかと思うのです。

融子さんのように50年続けることは、僕の今の年齢から考えると現実的ではありませんが、今の時代の「使い手・作り手・配り手」と共に時間を重ねて、いつか次の世代に何かを残せる生き方が出来たらと思います。

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