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地霊は服を着る

「伝統」とはなにか

「伝統」とは、ゴミ箱から拾われたゴミのようなものである。使われなくなった食器や着られなくなった衣服がそうであるように、事物は当初与えられていた役割を失ったとき、ゴミとしてゴミ箱に収納される。その後、廃棄されて永久に姿を消すか、ゴミ箱から救い出され再利用されるかという運命の分かれ道は、事物それ自体が持つ魅力にかかっている。目的を失ったときにはじめて、物に本来備わっている質感が浮かび上がってくるからだ。たとえば、海外の旅先で意味のわからない外国語を耳にすると、意味がわからないがゆえに、母国語では意識されない言語の響き、質感をぼくたちは感じることができる。同様に、井戸で水を汲むのに使われてきた釣瓶(つるべ)が釣瓶として使われなくなったときにはじめて、錆びた銅による肌触りや、均整のとれた美しい形といった、物それ自体が持つ質感が前景に立ち現われてくる。この局面において、その質感を魅力的に感じ、愛用したいと思ってもらえればゴミ箱から救い出されるが、そうでなければ永久に廃棄される。「伝統」とは、大切に受け継いでいきたい、と他人に思わせる魅力のことをいうのである。

忘筌の間


弧篷庵は大徳寺の塔頭であり、1612年に小堀遠州が自らの菩提所として建立したものである。弧篷庵の北西に位置する『忘筌の間』は、遠州が自らのために作った書院風の茶室であるが、その『忘筌』という名前は中国、戦国時代の思想家である荘子に由来している。

「筌(うえ)は魚をとらえるための道具である。魚をとらえてしまえば、筌のことは忘れてしまうものだ。わなは兎をとらえるための道具である。兎をとらえてしまえば、わなのことは忘れてしまうものだ。ことばというものは、意味をとらえるための道具だ。意味をとらえてしまえば、ことばに用はなくなるのだから、忘れてしまえばよい。私は、ことばを忘れることのできる人間を捜し出して、ともに語りたいものである。」荘子『外物篇』

『忘筌』の由来となったこの文章は道具にとらわれる愚かさを説いたものだが、道具の立場から考えると、魚をとらえたのち、筌が筌としての役割を失くしてからこそが重要なのではないだろうか。役割を失ってはじめて、筌自体の物としての佇まいが浮き彫りにされる。小堀遠州のプライベート空間として用いられた『忘筌の間』もまた、当初の役割が失われ、昔のようにお茶が点てられなくなった現在においても、それ自体の魅力によって多くの人たちに大切にされ、受け継がれている。

阪急電車の少女

梅田から三ノ宮へと向かう、阪急電車に乗っていたときのことだ。奇抜なワンピースを着た少女が芦屋駅で乗り込み、ぼくの前に座った。彼女が手にするバッグには、目を引くアニメのキャラクターが大きくあしらわれており、小さなぬいぐるみが沢山吊るされてあった。そうした一つひとつの物には彼女の気持ちを高めてくれる魅力が秘められており、ばらばらの異なる場所から選び取られ、集められている。それらを身につけて一体となることによって、少女は武装しているのだなと思った。刺青を入れると刺青が持つ猛々しい力を身に帯びることによって自身を強く感じられるようになり、ラクビーをする際にチームで揃いのユニフォームを着ると、実際はひとりであるにもかかわらず、全員の力が一体となって自分に乗り移ったかのように感じられる。そして、彼女のファッションも同じ働きをしている。少女は目張りの入った化粧をしており、その素顔を想像することは出来なかったが、そもそも、素顔それ自体があいまいだ。痩せたり太ったり、歳を取ったり、髪型を変えるだけで変化する、可塑的なものだからだ。素顔に象徴されるぼくたちの生身は頼りないものだが、物は人間と一体となることによって、人間を力強い存在へと変えてくれる。一方で、物の立場からすると、捨てられないためには人間に選ばれ、寄生しなければならない。物が寄生することによって、人間は変身する。物が「パラサイト」として振る舞うこうしたあり方は、日本の古建築における移築の伝統の中にも見てとることができる。日本の伝統的な木造建築は、重厚な石造とは異なり、軽やかな材木を組み上げることでつくられるため、解体・移設が容易なことで知られている。重くて動かすことのできない建築ではなく、軽くて脱着可能な物として振る舞う建築の事例を、ひとつ紹介しようと思う。

竹生島

竹生島

人間と土地は、ある意味において似ている。一人ひとりの人間が身体上の特徴や能力上の向き・不向きを持っているように、一つひとつの土地もまた、物理的な形状や周辺環境の制約に由来する自身の個性を持つからだ。さらに特筆すべきは、今まで積み重ねてきた人生経験がその人の佇まいを作り出すように、土地においてもまた、どのように使われてきたかという土地の歴史がその場所の佇まいを作り出すことだ。たとえば、昔遊郭だった土地は遊郭が廃れた今でも以前の猥雑な雰囲気を引き継いでいるし、大きな武家屋敷が建っていた土地には今では立派な大学が建ち、格式高い佇まいを引き継いでいる。このように、人格と類似した土地の特性は、建築史において地霊(ゲニウス・ロキ)と呼ばれている。

琵琶湖に浮ぶ竹生島は、室町将軍家、豊臣家などといった時の権力者から民衆に至るまで広く信仰を集めてきた聖地である。古来は船の安全な航行を祈るための水神が祀られていたが、やがて神道が入り込み、奈良時代に僧の行基が寺を開いてからは天台宗と神道が混じり合い、観音信仰と弁才天(水神)信仰の二本柱による竹生島信仰が成立したという歴史を持つ。1558年に全ての建築が焼失し、島が荒廃したにもかかわらず戦乱の時代であったため、再建はほとんど進まなかったという。そうした中、1602年に竹生島へと移築された建築が宝厳寺唐門である。

宝厳寺唐門

近年に修復工事を終えたばかりのその姿は、檜皮葺きの豪快な唐破風を前面に突き出しており、緑や赤、青といった原色の顔料によって彩られた装飾が至るところに施されている。過剰なエネルギーの宿ったこの建築が、今は現存しない秀吉時代の大阪城から移築された極楽橋であったことはよく知られている。大阪城の本丸北側と二の丸を繋ぐ橋として架けられた極楽橋は、二階に望楼をのせた廊下橋だったことが「豊臣期大阪図屏風」などの当時の絵画資料から確認できる。秀吉の威光を象徴した壮麗な橋は、死去した秀吉を祀る豊国廟に極楽門として1600年に移され、さらにその2年後、極楽門は竹生島へと移築され、その一部が宝厳寺唐門として、今も島に生き続けている。(豊国廟も秀吉時代の大阪城と同様、今は現存しない。)こうした流転の過去を持つ唐門が竹生島の地形や近接する他の建築と一体となって、あたかも最初からそこに存在するかのように、島の伽藍の一員になっていることは興味深い。移築された当初はあったに違いない大阪城の頃の面影は忘れられて、大阪城での「極楽橋」でも豊国廟での「極楽門」でもなく、竹生島では「宝厳寺唐門」へと名前を変えて、島のなかで新しい関係性をつくり出している。

阪急電車の少女が着飾ることで強い力を得ていたように、竹生島の地霊(ゲニウス・ロキ)もまた、強烈な魅力を放つ奇抜な建築=服を身につけることによって武装し、聖地としての自らの厳かな力を高めようとしたのだろうか。ともあれ、宝厳寺唐門は大阪城での当初の役割を失った後も、廃棄されて永久に姿を消すことなく、多くの人たちに大切にされて、今も竹生島に寄生している。

主な参考文献:
鈴木博之『東京の地霊』(ちくま学芸文庫、2009年)、竹生島奉賛会『竹生島 琵琶湖に浮かぶ神の島』(サンライズ出版、2017年)

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