【画像:筑摩書房『ミシェル・フーコー講義集成(7) コレージュ・ド・フランス講義1977-1978年度 安全・領土・人口』部分書影】
第6回❐2023年3月20日記
生-政治 bio-politique」はフーコーの後期の主要な概念であり,前掲書『性の歴史Ⅰ 知への意志』では次のように説明されているのだが,まさに”健康”イデオロギーの増殖の成れの果ての実相を暗示しているかのようだ。
前掲書『フーコー〈性の歴史〉入門講義』でも,次のようにわかりやすく説明されている。
ところでフーコーは,1970年からコレージュ・ド・フランス(フランス共和国における学問・教育の頂点に位置する国立の特別高等教育機関 グランテタブリスマン)で教鞭をとるようになるのだが,そこでの講義内容は,各年度末にフーコー自身の手によって要旨にまとめられて,『コレージュ・ド・フランス年鑑』に毎年掲載されていた。
前掲書『フーコー・コレクション フーコー・ガイドブック』にもその一部が掲載されており,中に,訳出は「生体政治 bio-politique」と変えられてあるものの,フーコー自身による説明がされているので紹介しておこう。
さて,ウイルスそのものの話に始まり,コロナウイルスの正体を追いかけながら,コロナ禍における「自発的」自粛騒ぎは,じつは昨今の”健康”イデオロギーの浸透と深い相関関係にあって,それはミシェル・フーコー言うところの「生-権力」「生-政治」へ見事に接合されていく,といった流れで話を進めてきたが,ここまでをまとめておくことにしよう。
要するに,こういうことになるだろう。
”安心・安全”を担保とし,寿命の延伸のみを糧とする”健康”イデオロギーに囚われた心性というものがまずある。
その心性が,いつしかあの手この手で人間を”生かす”ように仕向けられた「(生に対する)権力」のまなざしを常に意識せざるを得ないよう仕向けられ,ついにはその「(生に対する)権力」は意識として内面化されることになるのである。
そして,「(生に対する)権力」の管理統御への手続きにひたすら随順することによって,「権力」にとって甚だ都合の良い”人間”に鋳造されていくというわけだ。
”健康”イデオロギーは,おそらくこの先ますます増殖の一途を辿ることになるのだろうが,「生-権力」の管理強化に対して,「消極的な抵抗」(前出・笠井潔氏)に終わらぬよう,”健康”をとりまく言説空間を「多層的かつ厳格にチェック」(前出・山崎望氏)しながら,「フーコー的な問題提起」(前出・外山恒一氏)への関心を持ち続けていたいものである。