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アルス・エクリチュール 再生としてのアン 他


■再生としてのアン

・欲望とは神の意志と一致しない自由意志の行使である

・アンにおいては、欲望と神の意志の一致が起こる(クザーヌス的な一致)

・リビドー(生産)、ヌーメン(登録)、ヴォルプタス(消費)に次いで、アンは、再生、を象徴する

・こと、アンは、教会的な復活論ではなく、異邦人的な再生論を纏う(これは、ヌーメン的な離接的な統合に依拠する)

・ヌーメン(登録)的な、あの切断とは、教会的な復活に比定して、異邦人的な、「残りの者」的なものであり、その再生を意味している

・欲望の収束点として、必ず、再生を希求することこそ、欲望と意志の一致それ自体なのである

・近現代人の喪失したものは、かつては、なんらかの事前的な、まさに潜在化されながらも、予感として働きを有していたアン(再生)の現実的な期待である

・このアンについては、ヌーメンと対を為すように、神に抱握されているからこそ常に潜在的で、しかし、潜在的であるゆえに、期待を予感しうるものでもある(唯一回性ということ)

・人間の欲望としてのリビドーとヴォルプタスに比定して、ヌーメンとアンは絶対他者に基づく意志である


・ヌーメンは自由意志に対して行使される宗教的な否定意志であり、絶対他者を想定する。同じく、アンにおいては、絶対他者を想定するのである

・アンは、ルターに言わせるのであれば、徹底して恩寵のことをのみ意味するだろう

・人間の欲望の範疇を超えた恵みとしてのアンなのである

・ここで神学的な領域に踏み込まなければならないが、一神教的な、つまり、教会内的な神は、教会外では不在であり、無であるのか、または、教会外においても、神は神、であるのか


・言うまでもなく、神の定義上、教会外においても神は神でなくてはならない(教会外キリスト者の教えとは、公認になることはないにせよ、提出されたこと自体が、すでに原シニフィアン的なのである)

・つまり、教会内におけるキリストというパースペクティブは、教会外における、不定冠詞an、なのである

・それは、教義化されることのない、一回性の不定冠詞anであり続けるし、また、何かしら聖母マリア的なものとの連関にあるのである

・ここで提示された、聖母マリア、という固有名詞は、おそらく、固有名詞であり続けるだろう




■教会外イコン、アートとしてのイコン

・そして、アートとしてのイコンもまた、神の異邦人への「直接関係」を意味する

・「教会外に救いなし」という言葉が教会にはある

・まずその前提が聖句それそのものではないことに目を向けられることからしか、所謂、世においてすでに「クリスチャン的なもの」と一蹴される「安易な一元論」は解除されないだろう

・つまり、たしかに教義は正しい。だが、教義に過ぎない、という了解は、教会外イコン、といった領域からしか生成されないだろう




■ヌーメンとアン

・ヌーメンは絶対他者による人間への阻害、抑制、攻撃である

・だが、アンに開かれていくなかで、そもそもが、ヌーメンとは、本来的に人間が宿していた宿命(変えられないもの)に対するカウンターパートでもあることに気がつく

・人間が死ぬときに、それは宿命ではあるが、ヌーメンは、神がゆえに人間が死ぬ、ということを可能にする


・つまり、なんらかの受難が訪れるときに、孤立的人間、としてそれを宿命のように単一に感受するのか、または、ヌーメンによるものとして、神がゆえに(ともに)、苦しむのか、という形式が与えられているのである

・アンは、ヌーメンによる神からの人間への阻害の結果もたらされる報酬とそれ以上の恵みである

・そして、アンは、異邦人のそのことなのである


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