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■言語は社会権力構造の人質論/言語それそのものが、社会権力構造から派生して誕生しているため、言語は必ず社会権力の代理者であり、かつ、権力構造への目配せが自動的に行われている、ということについて(ゆえに、言語的思考は不可能的であり、非言語的思考は神秘的である)


・言語は社会から貸与されたものであるときに、言語は常に社会構成のための代理者としての機能を果たし続けることになる(言語自体の構造主義論)

・その場合、このことが言語が常に社会構成に加担しなければならない、ひとつの社会の奴隷であることを意味する(意味というものそれ自体の構造主義論)

・ある真理ないし真実がある場合においても、言語は必ず社会構成に気を配り、その真理ないし真実が、社会構成を脅かす場合には、そのことを、書けない、という拘束力のもとにあることになる(これは驚くべき証言である)

・それは、なんらかの隠蔽動機があるゆえに、言語が真実を表せないのではなく、そもそも、なんらかの隠蔽動機自体から、言語が派生ないし派遣されて誕生している経緯によることが考えうる(言語より、人間の社会の発生のほうが歴史的には先である。結果的に、社会の代理者、派遣者としての性格を、その後に開発された言語というものは、帯びていることは容易に洞察しうる)

・西洋を支えたあれほど崇高な、たとえば、聖書の存在においても、存在神論を構成する動機のもとに、書かれなければならなかった、という拘束力のもとにしか、書かれえない(それが言語という社会からのエージェントに依存せざるをえないから、ということ。存在神論とは、社会権力を支えるための偶像的神イメージや言説)

・このことは、ある種の神秘体験と宗教自体が、なぜ、その距離を有するのか、ということを表現している。言語は社会の代理機能を果たし続ける権力のひとつの奴隷であり、そのために、社会構成を超えた真理を語り得ない(宗教が社会権力から派遣されたエージェントという以上に、すでに言語が、社会権力の人質であり、社会権力に目配せしなければ、何も書くことも発話することも、つまり、意味を奏すること、ができないことによる)

・では、なぜ、この洞察を証言できるのか、といえば、これは、証明にはなり得ない証言に踏みとどまるものであるから、ということになる(人間が懐く源郷感覚や深部のクオリアの感覚と、言語それそのものが、それらのことを表すときに、その実態はすでに必ず社会権力に無害か隠れたる従属をしていることや、聖書にしても、それが社会の代理者である言語で表されたものである以上、結局は社会に内包しうる権力構造に従属する宗教しか生まなかった、生めなかったことを感覚する)

・つまり、言語自体がすでに社会の人質であり、われわれに対して、人質(言語)が、どのように振る舞うのかは容易に想像しうる

・人質は、自らを殺めうるものの代理者であり、社会に目配せをし、権力構造に寄与すること以外には話すことはない(たとえば、日本語をよりよく話すときに、よりよく日本人に"なってしまう"という代理機能のほうが注目されるべきである、ということ。それは、言語が必ず、いずれかの国家ないし社会に属しながら、でしか存在しえない、というよく考えれば驚くべきことに気がつく)

・言語とは、ある特定の社会権力圏内における、密約であり、暗号であり、権力の人質であり、一切、それ以外を語り得ないところのものである

・歴史とか記憶、ということが、社会権力の代理者、人質としての言語でしか、流通しえないことにより、現状の歴史や社会(個々の、記憶、という権力整合性)を、より、権力的に正統化するという言語それそのものの代理機能(実直に書こうとすると、このようにしか書けない)

・われわれは、社会権力の人質であるが、われわれがそれに対向しようとして用いる言語それそのものも、また、すでに何万年かの社会の人質状態なのである、ということ

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