エクリチュール Quo1 果たして有史以来死んだことはあるのか

・わたしたちは問われている。眼の前の株式チャートに、TikTokに、お笑い番組に、子供に、問われている

・問われているのは、何か、何事か

・その声は「あなたは何者か(Quo!?)」と。その糾弾じみた荒げた声は、透明な沈黙で、すべての人が聴き取ることのできる声量で、響いている

・Quo!?

・だのに、誰も、さあ、気がつかない。その気がつかなさにおいて、決して終わることのないただの事象の連鎖は止まることはない(世界は終わらない)

・あらゆる公理、公理、公理に、その公理系に閉ざされ続けているのである(人間は死んだ)

・公理系による自己完結的世界構造を脱去するためには、〈神学的なもの〉という、そもそもの公理系を問い続ける営みこそ、必要にならざるを得ない

・宗教的なもの、は、ある意味で、完結された世界像でありつつも、その求心力は、非自己完結性(無制約的なもの)に向いている。神学的なものは、完結され難い世界像でありながら、求心力を非自己完結性に向けることに成功する

・世界批判的な言語は、おそらく、詩的なもの、にあわせながら、神学的なもの、である(無論、即時、神学自体を意味はしない)

・われわれはあまりに、強大なほどに固く、その意味で脆弱になり過ぎたのだ。なぜなら、われわれというときの、われわれ性こそが、それは、N=母数的なもの、を決定的"仮説"することであり、幻覚的に、システムの外郭が、構築され、いつしか、〈システムの憑依〉が人間に起こっていた

・そこでは、死者は、死者としての生を喪失させられたまま、切り捨て、を行われ、生者と呼ばれる、あの〈われわれたち〉が、秘匿された全体主義を遂行し続けている

・今日のそれは、空気性民衆主義であり、独裁的全体主義でもあり、時間経過のなかで、そう、加速することで、その回路が焼ききれることを待望しているのである(加速主義ということ)

・さて、しかし、問題となるのは、〈われわれたち〉より圧倒的に多数である〈切り捨てをされた死者たち〉は、〈われわれたち〉と、どのような面会形式を創出できるというのだろうか(問われているのは、もはや、内実でさえなく、形式なのである)

・肉体性を脱去された、〈切り捨てをされた死者たち〉のまえで〈われわれたち〉は、もはや、資本または民意もしくは世間体を振りかざすことを夢想する

・つまり、切り捨てられているのは、逆説的に〈われわれたち〉であり、そこでは、なんらかの想起性に基づいて、対向、が行われるが、記憶領域の重力に着地させられるのである

・これでは、世界は〈われわれたち〉のためだけに、ただ、存在することになり、結果的に、爆発的な退化、つまり、発展的自己抹消、が、まるで解決策のように、〈われわれたち〉の頭上に振りかざされているのである(宇宙という狭窄的なセマサ)

・そこでは、元来的に、いつも、人間が、その訪れを受ける、カイロス、は喪失され、人間は人間という名前を記号論的に付与しあい、その記号たちが秒針のようにクロノスだけが、カチカチと刻まれていく

・〈問い性〉は、予定調和の等式自体をこそ希求するだけの、〈動いているような不動性〉において、葛藤なき止揚を演じ続けることになる。その結末は平和か闘争のいずれかに、いつも決定されている

・それが相対運動に過ぎないことを、知らせるのは、いつも、カイロス的な、あの、訪れ、であるのだが、それが、常に、破断され、途切れていく事態に伸長するだけなのである

・他者性は、〈相手〉のなかから消失する以前に、〈自分〉のなかからこそまず喪失されていく

・いいだろうか。他者性は〈誰か〉から喪失されるのではなす、自分自身のなかからまず喪失していくのである

・刺激に対する脊髄反射体。つまり、まさに、生物学的身体、の誕生なのである(これは、生物学が生まれたときに同時に誕生したのである)

・無論、生物学的身体は、それ自体、棄却できないが、生物学的身体の反面または、それより遥かに大きな系としてのドコカに非生物学的身体が非在的にあることで、その生物学的身体もまた生かされることがはじめてできる、ということが、喪失されているのである

・〈世界批判〉は、〈われわれたち〉には不可能なのである

・生物学的身体と、それとアナロギア的に関係するより大きな系としての身体の間の、呻吟、こそが、〈世界批判〉を非能動、非受動、的に響命させるのである

・このように〈非われわれたち〉においては、当たり前だった懊悩が、世界像のそのあまりに軽い重たさとして、のしかかる

・〈死者支持性〉の問題に対面した人間たちは、もはや、どこにあるのか

・少なくとも生者は死者に支持されなければ、その実体は、〈システム〉に憑依され、〈霊なき亡霊〉として合理性のなかを合理的に彷徨うことになる

・〈過ぎ去るもの〉。まさに、〈われわれたち〉の他に支持されることのないオブジェクト、作品、それどころか、価値、さえ、〈過ぎ去り〉に果てる

・「私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています」

・こう述べられた壇上は今では宗教(的偏見)という隔離に閉ざされているわけであるが、強い想起性を感覚できなければ、あの超全体性、に〈われわれたち〉が不時着することは不可能的なのである

・生きることが問題なのではない。それ以前性の問題なのである

・そもそも――そもそも、死ぬことは、可能なのか

・死はどこに行ったのか

・あれは死体である。死ではない

・あなたの死は、わたしは知らない

・あなたしか知らない

・あなたはそれでもまだ死ぬことが可能だと、その口で言うのだろうか

・死はすでに人間から退去したのである

・人間以前に、生、というものが、どこからか、到来したように、死は退去したのである

・この世界像のなかで、死に能わることが、可能だという前提で生きるということは語義矛盾である

・一体、だれが、死んだのか?

・果たして、有史以来、死んだことはあるのか

・果たして、有史以来、死んだことはあるのか

・誤字表現ではない

・果たして、有史以来、死んだことはあるのか

・今一度、この問いに引き下がることで、〈われわれたち〉は、生を獲得しなければ、ならない

・なぜなら、生は有史以来、生きられたことがあるのか


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