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【NOVEL】ある男の人生 第5話

 フランスのある劇作家は「理屈をこねると理性を追放する」と言った。男が、こんなにも誇っていた生活は、もしかすると気取った未完成に過ぎなかったのかもしれない。男は少なくとも悪ではなく、かと言って善とも言い難い、大らかな気持ちで我慢しており、不満に似ているが幸福でもない。それは、実現しえないものに対する郷愁のようであり、男にとって幸福とは近づくことは出来ないが、絶えず追及していくものなのかもしれない。 
 現に旧友の彼だって「不便を常としていれば不自由無い」という発想であり、決して余裕のある暮らしではない。男はそれが懸命な生活とは思えなかった。
 この傾向は、個人的な生活は卑しいものと考える。彼自身、矛盾しているのと同様、友だって矛盾した幸福にいるのだから、つまらぬ結論になってしまうが、結局、幸福とは己がそれを認めるかどうかにかかってしまう。個人的な生活が、友人の若さの秘訣であるならば、学生時代に培った学問の皺は一体何だったのだろうと思い悩む。
 元来、友人は優しい人間でもあった。それは今でも変わらないが、会話の要所々々で現れる彼の保守的な発想は、本人が一番理解している。彼が、男の返答を聞かずして席を立ったのもその証左である。
 男はそれも十分理解していた。確かに、友情というものを男は友を通して知った。また、友情とは、それ以上深く出来ないものと悟る。学生の頃まで境遇が同じなので、その先互いの価値観が大きく異なるのは当然である。
 実のところ、友人の本意は世間に対する恐怖でもある。ブランクを良しとしない御国柄で、何の役にも立たない抽象科学を研究していたことに人生の浪費を感じずにいられなかった。彼が、男に対して反駁してしまうのも、その裏返しと言える。その本心を男に指摘されて、自身の内奥を読み取られたのが耐えられなかったのだ。友人の考えは、他人の個性を尊重する分、自分の個性の発展も自由にして、自己の所有を個人に任せるものである。それが大の大人からすると、他人に甘く、自分にも甘い奴に見えてしまう。
 おそらく、彼が老年期に差し掛かる人間であれば、その主張を誰もが認める。彼の主張が、人間が行き着く先の終着駅だとすると、考え直すべき運命論である。すなわち「なるようになるだろう、世界はあるがままだから、自分もあるがままで良い。それは決定されており、そうあるべきだったのだ」
 こういう態度が、ボランティア精神、自由意志の喪失であり、独り善がりの悪論で、彼の成長にとって頗る有害である。
 一方で、男だって内心穏やかではなかった。これまで、家庭や仕事の所為で、好ましいもの、満足すべきものを断念していた。友の生活が単純で安易で無為な生活とするならば、男は要求の厳しい責任ある容易でない生活を送りつつある。
 二人はまだ三十代である。
 会計に向かった男だったが、その支払いは既に済んでいた。

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 十年が過ぎた。その間、二人は一度も会うことが無かった。友人との談話の記憶も徐々に男の胸から消えていき、当時、抱えていた悩みもいくらか収縮していた。男が仕事から帰ると、すでに鼻に付いてうんざりとなった彼の妻が、いつしか装いもせず、寝椅子に身を投げ出しているのだった。これが自分の家庭の懐と知っていた。彼の生活は、いつも判で押したように同じ順序で流れた。そのうちに二人目の子供も授かった。仕事に精が出るのは良かったが、年を重ねるにつれ、その内容はますます込み入ったものになっていった。
 組織の中でも重要度の高い計画を担うようになり、男はこれまでにないくらい仕事に引き込まれ、すべての時間をそれに捧げるようになった。傍からすると、彼は明らかに多忙であった。だが、彼自身は、自由に生きて、自在に活きていると思っていた。それは、やったことのないものに対する挑戦の喜びを知ってしまったのである。
 彼は、商品の企画において、新規性があり実用性に富んだ発想に極めて敏感になっていった。その実績が買われ、彼は遂に、ある開発部門の統率者に抜擢された。百倍以上の競争率から勝ち上がり、年功序列の文字は消え、四十代に達した今現在が、彼の自尊心を唆る。この職務は、彼にとって誘惑でもあった。知力を活用出来る上、能弁になれる立場を得たからである。
 高い役職に到達した一方、彼の家庭生活にも重大な変化が生じた。二人の子供の教育が、彼を妻から再び遠ざけたのである。彼女は、もはや夫に気を使わなくなった。妻としての優しい感情や愛撫はほとんど無くなり、代わりに母として、それらすべてが子供たちに注がれた。それでも、男は過去に倣い、年頃の娘への配慮、まだ幼い息子の教育、両方とも僅かな時間だが積極的に行うのだった。
 以前の彼とは大きく違うが、酒色の誘惑に負けそうなときもある。まず、仕事後の甘美な休息は、妻のもとでは、もはや発見しえないものと考えていた。少し色欲を刺激されてしまえば、再び身持ちの良くない女と親しくなるだろう。だが、もし男に「お前はそれで幸福だったか、不幸だったか」と訪ねてしまえば、彼は返答に窮し、その場を去るに違いない。要するに彼は、一つの仕事、一つの家庭から快楽を望むことをしなかった。
 当然、新しい心労が生じた。彼にその自覚が多少あったが、今は休むべきでは決して無かった。ある日、男が医療機関で健診を受けた際、診察した医者が彼にこう言った。「この生活を続けていると、血管が五十までもちませんよ」と。
 医者が彼に指摘したことは、いわゆる生活習慣というものだった。彼は確かに多忙だったが、生活の歩み全体としては違和感こそ無かった。働き盛りの彼は、その忠告に耳を貸さなかった。第一に、医者の台詞が世間に漂う健康ブームのような宣伝活動に思えたから。第二に、彼自身、どんな同僚よりも頑健な身体であると自負していたからである。
 また、彼に対する医者の助言は、あまりにも抽象的だったので、男は思い違いをしてしまったのである。まず、この生活の意味を十分に理解していなかった。加えて、血管という部位を指摘されたことにも納得出来なかった。その点、彼は運が悪かったと言える。
 男はそれを単なる脅しと捉え、生命を危うくするものではないと高をくくったのである。身体の異変は、その先の話なのだから……
 このような生活に終始しているうちに、今度は父としての心配事が増えた。十七になる娘が心身に支障をきたし、自室から出なくなったのである。年頃、彼女が持つ批判的な思考は、外部に向けられることが多く、世間に対する理想的なイメージがあった。それを学校の教師が頭ごなしに否定したのである。思春期である彼女は、身体的変化が激しい一方で内部機能が追い付かず、批判の対象が外だけではなく内にも向けられていた。男から見て彼女は早熟だった。
 それでも、二三日の休息を与えてやれば、けろりとした顔で部屋から出てくるだろうと男は軽く考えていた。ところが、一週間ほど経っても、まともに顔を合わせる機会が無いので、同じ屋根の下でありながら流石にこれは不味いと感じたのである。
 ある日、男が久々に定時で帰宅したときのことである。家の扉を開けると、薄暗い居間で、彼の妻が一人ふさぎ込んでいたのだ。娘が不調になった原因は、自分の教育の所為だと思い悩み、自責の念に駆られていたのである。娘は娘で相変わらず自室を閉ざしており、これらは男を強く苦しめた。これほど取り乱した妻を目の当たりにするのは、男も初めてだったのである。彼はその教師をひどく恨んだが、それでも、自身の長時間労働に加え、孤立した子育てが、この国の伝統であると誤認したのは自分自身であり、分業が招いた失敗とも言える。
 散乱した化粧台で、泣き崩れる妻の背中を男はさすってやるしかなかった。
 この数か月の間、精神的苦しみの真っただ中で、彼の思想は働き始める。彼は、他人の生活のように自己の生活を眺めながら、それを熟考するだけの余裕が無かった。彼の生活は暗い光に包まれていたが、勤め人としての彼は感傷している場合では無いので、どんなに不愉快な一日であっても、顔色一つ変えずに仕事に打ち込むのだった。
 そして、一日が終わり、寝室に着くと彼は寝床に一人横たわりながら、自分の幸福がいかに些細な偶然に依拠していたかについて、思わず考え始めた。その思想が、自己の不幸ではなく、家族全体に包含していることに気が付いたのである。加えて、自分が倒れてしまっては、仕事は何もかも滞り、家庭は崩壊してしまうと、彼は己に増々責任を課すのだった。

【NOVEL】ある男の人生 第6話|Naohiko (note.com)

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