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【NOVEL】体躯の日 第8話

 背広姿の俺が、何事も無く部屋に戻って来たのは間も無い。
右手で腹をさすっては軽く叩いている様子を見ると、朝食が望み通り満ち足りたようであった。左手には朝刊を持っている。察するに、俺の取り越し苦労だったのは否めない。
「いやぁ、ビジネスホテルの朝食があそこまで立派なものであると、もはや仕事目的でなくてもこりゃ満足出来るな」
「そいつは良かったな」
「あぁ」
「一階まで無事に行けたのか?」
「あぁ、当然だ」
 身体はそう言ってコップを手にすると、一旦洗面所へ向かい水を注ぎに行った。コップの底から二三滴垂らしながら、大股で戻って来ると、電気ポットのふたを開け、中に注ぎ入れる。スイッチを入れる。肘掛椅子に浅く腰掛けると朝刊を開くのであった。ごたごたと入り混じっている新聞の見出しに、普段の俺は興味が無い。フロントに据置きされてある朝刊を手に取ったのは、退屈凌ぎが目的ではないはずだ。奴は、ばらばらと音を立てて捲り出すと、目に留まった記事を前にぴたりと手を止めた。奴は、視界から俺を遮るようにしている。偶然か、故意にしているのか不明であったが、俺の位置からでは、奴の姿は、見開きの新聞を介して影しか見えやしないのだ。
「なんだ、ベッドから転げ落ちたのか?」
 俺に向かって一瞥を投げる姿勢は、やはりどこか不幸せな、見下した表情(?)にも見える。ここで腹を立ててはいけない。本来、所期の目的はこいつへの歩み寄りなのだ。
 俺は首の力を抜いて、後頭部を背にしてベッドの脚に寄り掛かる。そこから見上げる姿勢は、自分を卑下するような形になってしまうのだが、むしろ都合の良いことなのかもしれない。
「いやぁ、ベッドから降りたのは良いが、俺自身で移動出来るのはここまでなのだよ」
「…そりゃな」
「玄関を開けようとしても、ドアノブに届く訳も無い。普段、頭というものは身体の支えによって感じにくいものだが、重いのなんので…」
「まぁな、無駄に重い」
「今回の一件でよく分かった。要するに俺はお前の大切さに気付いていなかった」
「…」
ふん、分かっている。千切れてもそりゃ俺の身体だ。性格が少々異なるがどうやら本質は同じなようだ。興味の無い話になると、一切こちらに気を留めない。まるで無視だ。差し当って「どうでも良い」といった態度をみせる。だからこそ、ここで譲歩しているのではないか。
「何でもそうだが、人は失ってからその大切さを知るというのは、本当だね」
「…フィリピンで大型台風、被害甚大か。最近、日本も多いと思っていたが、世界規模で台風が多発しているのか」
 新聞に目を通す日課は無い。俺を相手にしない為の手段材料だ。見出しを音読することで、人の話を無視するなんて、実に幼稚だ。(いや、そういえば、不快で煩わしい雑音が聞こえてくると、俺もそうしていたかもしれない)見苦しい俺を、視界から消していたいだけなのだ。独り言の調子は、俺にも聞こえる声量で尚且つ、それは冷たい小声である。「なぁんだ、しし座が六位じゃぁないか。これでは喜んで良いのか、がっかりするべきなのか分かったものでは無い」と奴は言った。星座占いに目を通すことも俺らしくないのだ。
「…」
 おかしいな、台風の接近といい、星座占いといい、小さな話題がぽつりぽつりとあっておきながら、そこから敷衍することが全くない。もしかすると、こんなに余裕綽々でありながら、話の論点を俺から探っているのか。伝える意思が無いということは、それに対して興味が無いのと同時に、決まって相手の情報量を把握しているからである。とすると、それらの独り言から、奴の事情を汲み取っていかなくてはいけないのか。
 いや、俺のことだ。ひょっとすると、単純に新聞に没頭しているだけかもしれない。意外と抜かり無いところがある。新聞で昨今の出来事を斜め読みするのは、口頭試問に向けての事前準備なのであろう。まぁ、時事に関心を寄せるのも良いが、こういう時に限って、その日の面接では突っ込まれなかったりするものだ。俺がお前に抱いた杞憂のように終わってしまうぞ。
「目に留まる記事でもあったのか?」興味無さげに俺は言った。
「…いや、無い」
「大体、新聞なんて、見出しをチェックしておけば事足りると思うが」
「無さ過ぎて逆に安心したよ。世相はいたっていつも通りだ」
「?」
 相変わらず、俺は奴の胸中が分からずにいた。だが、奴の言動に対して徐々に違和感を持たなくなっていた自分に、俺はふと気が付いた。それは本来の意思に反していても、奴がこれまで以上に自然体に見えてきたからである。新聞越しにある影の上体が、左右に揺れているのが見える。現況に平常と感じつつあることにも若干の恐怖があったが、この場にある雰囲気は、それこそ、駆け引きなどそもそも必要としていない出来レースにも思えたからである。奴の余裕は成るべくして成ったものなら、俺はそれに対して唯々抗っていただけなのかもしれない。
 刻一刻と入社面接の時間が近づいてきている。奴は、新聞を折り畳み、化粧台へぽいと投げると、足元の戸棚から緑茶のティーバックを取り出し、その封を切って湯飲みに入れる。湯が沸くのを待つのである。落ち着き払う奴に俺は言った。
「なぁ、ここでゆとりを持つのも悪くは無い。だが、どうであろう、俺たちは未だ試験会場の下見もしていない」
「…」
「ここは一旦、チェックアウトをして、会場の傍へ行かないか?どうせ街中の駅だ、近くに喫茶店はいくらでもあるし」
「もう行って来た」と言って、奴は俺の言いかけの言葉に被せるのだった。
「え?」
「飯後、ふらっと外へ出た。なに、駅のホーム伝いで歩いていけば、大した距離でもない。立地は良いが、古い建物だったよ」
 それを聞いた俺は、奴の殊勝な心がけに感心してしまった。なんと下見まで出来る優等生だったとは!であれば尚更、俺はこいつと仲良く睦みあう必要が出てくる。俺自身頭に浮かんだ謝意が、どうも純粋なものとは言えないのだが、頼まれもしていないことを実行出来るとは、願い望んでいた以上である。
 しかし、これでは相手を急かす口実が無くなってしまうな。それに、予想以上の行動力には関心を通り越して不安に駆られてしまう。信頼関係が出来た上でこのような分離活動をしなくては、奴の動向が気がかりで朝寝坊もままならない。
「ありがとう!そいつは俺たちも恵まれている。であれば、そろそろ元に戻らないとな」
 と言って、俺は首の力の反動で床に直立した。日頃、使い慣れていない懇ろな言葉遣いをしてしまったらしく、思慮が浅かったのか、俺の身体には響くに値しない台詞だったらしい。先程まで、冷ややかで、緩慢にしか行われていなかった会話に、俺は悪い方向へ抑揚を生んでしまったのである。
「は?」
「え?」
「戻るとはどういうことだ?」
「…」
 本来の朝であれば、まず寝癖を直す。床を転げ回ってしまったので、顔は普段よりも入念に洗うべきであろう。次にひげを剃らなくてはいけない。頬やあごの裏など、清潔感はどんな入社面接でも常識である。乾燥肌の俺には、突っ張った肌にスキンクリームを塗って欲しい。そして髪型、これが重要だ!俺はおでこが広く、コンプレックスになりつつある。それを整髪料一つで良い方向に持っていくことが出来る。俺の生活の誘因は、髪型一つと言っても良い。それらに有する時間を考慮してもらわなくては困る。

【NOVEL】体躯の日 第9話|Naohiko (note.com)

#創作大賞2024 #ミステリー小説部門

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