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アンパンマン哲学に対抗する

noteの「ダッシュボード」で「アクセス状況」をちょいちょい眺める。

ワン・ディジット・ノーティスト(=もらうスキは一桁のnote書き)を自負している私だが、自分の書いた記事がどれだけの人に届いているかが気にならないはずがない。

「アクセス状況」を全期間で設定すると、最もビュー数を取っている=最も多く読まれている記事はこちら↓


「キナリ杯」の投稿記事も、流行の「鬼滅」に乗っかった記事も差し置いて、2位に100ビュー以上の差をつけて長らくトップに君臨している。

アンパンマン恐るべし。いや、内容的にはやなせたかし恐るべし、か。

ちなみに、「スキ」数ではトップ20にも入らない。
ワン・ディジット・ノーティストの体現のような記事でもある。

さて、長い前置きは置いといて、本題へ。

何のために生まれて
何をして生きるのか
答えられないなんて
そんなのは嫌だ

この歌詞の深さについて書いたのだが、その後に読んだとある新書によって少し見方が変わった。

心=感情、欲求、感覚、直感と身体が密接に結びつく自然の在り方に、頭=理性、欲望が何かとコントロールを加える形でヒトは人間になる。
頭が過剰に心をコントロールすることで身体の不調も起こる。
心の病や対人トラブルの根本には、心の弱体化がある。

ざっくり要約するとこういうことです。

その中で引用された次のフレーズが目を引きました。

「わたしは生きるがゆえに生きる」

これは『エックハルト説教集』「なぜという問いのない生き方について」からの引用とのこと(P.251)

筆者は本来意味や目的をもたない命に対して、特別な意味を見出だそうとするのは理性が勝手に求めるという思い上がった過ちであると解説しています。

となると、

何のために生まれて
何のために生きるのか

という問いに答えられないことは、むしろあるがままの人生を生きる上で自然のことなのではないか。

そして、別のこんな文章にも出会いました。

ビートたけしの詩集「僕は馬鹿になった」の一節。

人は何か一つくらい誇れるものを持っている
何でもいい、それを見つけなさい
勉強が駄目だったら、運動がある
両方駄目だったら、君には優しさがある
夢をもて、目的をもて、やれば出来る

こんな言葉に騙されるな、何もなくていいんだ
人は生まれて、生きて、死ぬ
これだけでたいしたもんだ
(「騙されるな」文庫版P40~41)

生きる意味や目的を自ら見つけることは素晴らしいが、ないからといって悲観することはない。

生きる意味が見つからないて焦り嘆くのは、あるがままの生を生きていない証拠となる。

そのように解釈した。

アンパンマンのマーチが投げかける問いが、生きる上での縛りにならないように。

「わたしは生きるがゆえに生きる」も大切にしていきたいし、伝えていきたい。

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