見出し画像

僕とF3

最近の動向
 お久しぶりでした!?久々のnote更新ですが、ノートの更新が滞っていた大きな理由としては幾つかありまして

・本業がチョッと忙しかった(写真案件)
・季節の変わり目で気怠かった
・その他etc…

 そんな感じでストック素材の活動も若干滞っていました。まぁネタ切れ感も否めなかったのですが、そんな最近世間はゴールデンウィークなんかもあったりして、僕の方もチョッとお休みしようかなと言った(ま、いつも休んでいるけど…)そんな温い感じです、それでも過去素材が回転して売れてくれる事に関しては、あーどーもーって感じです、感謝。

 そんな今回は過去の自分の一つの出来事を備忘録として記述してみようかなと思います、そんな今回はストックイラストでは無く、ストックフォトでもなく「写真」と言う事にフォーカスした内容となっておりますので、ご了承お願い致します。今更感はあるのですが、ある程度月日も流れたので埃被った思い出を引き出す様に空っぽの頭をフル回転させながら記述します。

 だからストックとは何の脈略もない内容なので、お風呂上りかなんかにソファーに寝そべって一杯ひっかけながらスマホやiPadなんかでポチポチと閲覧それでも良ければよろしくどーぞーって言う内容ですのでよろしくです。

過去の職場
 僕が以前勤めていた職場はローカルな地域による報道関係の職場だった、報道関係の職場だったから職場のセクションは多岐に渡っていた。大きく分けると代表取締役・役員・編集部員・営業部員・撮影部員・制作部員・工場部員・事務や会計・各地域に分散される支局・販売部員・等に分けられていた、細かく言うともっとあるのですが、そこは端折ります。

 その中で僕の配属は撮影部員と言うジャンルだった、入社したのが確か21歳過ぎから40手前までの約15年間位だったので。そんな撮影部員って一体何をするのと言われると、現場撮影からフィルム現像と言った処理までを行う業務内容だった。その頃はまだ今みたいにスマートフォンやデジイチやパソコンでの処理によるPhotoshopやlightroomなんて言う文明の利器は存在しない頃だったので、撮影に欠かせない一眼レフカメラや白黒の35㎜フィルムが活況な頃でした。

 現像に関しては暗室作業と言った手焼きがどのマスコミ界隈でも主流の頃でした。(今の子、暗室作業なんて分かるかな?)そんな暗室作業を分かりやすく説明すると、四畳半くらいの真っ暗い部屋でいくつもの化学薬品を使って、幾つかの機器を使いながら35㎜と呼ばれるフィルムの現像や、指定されたコマのフィルムを、印画紙と呼ばれる軽く乳剤が塗ってある紙に焼き付けると言った事を行う作業の事を指します。

当時の暗室風景

 そんな中僕が最初に与えられた仕事は編集部員が撮ってきた写真の現像作業だった。近年よくデジカメで撮影した写真をPCで処理する事を現像と呼ぶ人達がいますが、云い方を変えるとただの加工による補正やレタッチだ。でも僕のその当時はガチンコのフィルムによる現像だったから、現在のPCでの写真処理の事を現像と呼ぶのには些か疑問が浮かぶ時があります(ま、どっちでも良いんですけどね、当人が良ければ)

 そんな現像作業なんですが、一体どんな写真を現像するの?と言われると一応マスコミ関係だから社会的な事件や事故、街のイベント等の写真が主軸となってます。例えば柔らかい所で言えば幼稚園に於けるお遊戯会や小学校での初めての給食風景、街のイベントの様子、スピード感ある所で言えば高校野球によるスポーツやバスケや学校の運動会、選挙速報等、それとは相反してグロテスクな事で言えば、交通事故の場面や火災による火事現場、若しくは殺人現場なんて場面も数知れず触れてきました。

 幼稚園や小学校での行事ごとや町のイベントなんかはほっこり!?しながらの作業でしたが、さすがに交通事故や火事現場や殺人現場なんて言うと真っ暗い部屋で一人きりでの作業なもんだからグロテスクな絵がわんさか、紙面に掲載する時には軽くマイルドな仕上がりで掲載されますが、僕の所にくる画像は生々しい物ばかりで、それをマイルドに仕上げるのが僕の仕事だった。暗室に併設されている水道で一人きり何度嘔吐したのかは数えきれない程です。

 そんな事件現場のグチャグチャな絵や被疑者や被害者の絵、それが化学薬品の液体によりジワッと浮かび上がってくる訳ですから、まぁ率直にエグイ訳ですよ。まさにお化け屋敷…。

 しかしそんなグロい場面も数をこなしている内に人間特有の「慣れ」が生じてきて、そんな場面も何とも思わなくもなってきていました。寧ろ、あぁこうした方が効果的だよな~とか、知らない内にエッジを効かせる様にもなっていました、今思えばチョッと怖いよね。でも仕事だから一々感情輸入をしていられないのも事実でした。

 そんな日々が月曜から土曜まで朝から晩までビッシリですから、どんな馬鹿でも写真の技術は必然と鍛えられメキメキと腕を上げて行きます。そんな暗室による作業は約8年近くに及び、現在の僕の写真に於ける礎を作ってくれた環境でもありました、それから先はデジタルに移行した訳ですが。

 そんな撮影で人手が足りない時は現像班の僕も撮影に駆り出されたりしながら、とにかくまぁ毎日がエキサイティングな写真漬けな日々でした。

 そうして記事の内容や写真のコマや構図を決めると言った権限のある編集長と言う人とのやり取りの中で、当時の編集長は結果至上主義のタイプだったので、僕は写真を軸に毎日のように会社のビルが震撼する程に怒号を浴びてました。ま、当時の僕が駆け出しでおっちょこちょいだったのも否めないのですが。

 今世間でもてはやされているパワハラなんて温いったらありゃしない、そんな当時はパワハラなんてワードは存在しない時代だったし、寧ろそれがマストな時代だった、怒鳴られてナンボみたいな。
 だからこそ当時の人達はメキメキと頭角を現わしていたのも事実だ。

 現在の人達は時代のせいもあるのかもしれないが、ぬくぬく温室育ちで何かあれば直ぐに人のせいにしてみたり、国のせいにしてみたり、時代のせいにしてみたりと言った簡単に「ハラ」を付けたがる群衆の集まりだ。

 ロクに結果も出せない内から権利や主義だけを主張して、終いにはハラをつけて相手に押し付ける、そりゃ日本の景気も回復しないよ、だって最近の子でもアグレッシブな子は見当たらず、コスパや効率を重視で計算づくめな子達ばかりだもん、そして終いには会社や企業を直ぐにSNSやネットに書き込みブラック扱い…。

 そんな子達を見ていると思わず自分で自分の首を絞めている事に気付かないのか?と思ったりする瞬間もある。勿論僕の思想が老害なのかもしれないが、しかしいくら綺麗事並べたって、仕事は何時の時代も結果第一!

 そんな人間には仕事に於いて2通りのタイプが存在し、褒めて伸びるタイプと叩かれて伸びるタイプの2通りが存在します。その中で当時の僕は叩かれまくりで伸びて行ったので、叩かれながら伸びるタイプなんだな~としみじみ感じながら…。だから褒めて伸ばすと言う意味が今一つ飲み込めないのも現実です。褒めて伸ばすってそれは裏を返すと、教え手が習い手に媚びてるだけやん!それは本当の優しさなのか!?

 仕事はいつだって厳しい世界、その対価としてお金を貰っている訳だから楽しい内は仕事じゃないし、それはただの趣味、悩みながら作るのが仕事、結果出してナンボ。しかしそれも時代の悪戯なのか、少なくても僕はそう洗脳されながら育ってきたタイプだ。だからと言って現代っ子に僕と同じ道をトレースしろと公言するつもりはない。でも時には自ら厳しい道に飛び込む事も大事だと思っている。

 話は少しずれてしまったが話を少し戻して、勿論35㎜のフィルム時代の話だから、今みたいに撮った画像をその場で確認と言う事が出来ない、帰社してフィルム現像から上がるまで撮った絵の内容や画質は分からない、そんな撮る側も現像する側も絶対的な協力プレイが求められ、培ってきた知識や経験が物を言わすと言った一発勝負の世界だった。

 勿論撮り直しや現像し直しは不可、同じ現場やフィルムは二度とない、そんな過酷な環境だらけでしたから撮影班も現像班も失敗は許されないスピード感とヒリヒリ感満載の日々でした。

 その当時僕が持っていたカメラはNikonのF3と言う報道向けに作られた完全マニュアルのカメラだった、レンズは50㎜単焦点レンズ、ズームレンズじゃないから兎に角足を使わなければ話にならないレンズとカメラ。そんな当時各報道陣はAF(オートフォーカス)が主流の中、何故か僕だけは上の人からF3と言うカメラを持つように言われた。

 当時の会社がNikonと繋がりが若干あると言う事もあってか。そんなF3は当時の僕にとってじゃじゃ馬なカメラだった、完全マニュアルだからピン合わせからアイリスの設定、ISO感度、露出補正、フィルムの巻き上げなんかも全てが手作業だった。

 だから触り始め当初はピンが甘かったり、露出のオーバーやアンダー、手ブレなんかザラ。マニュアルカメラだからプログラムAEなんて無いカメラ。

 絞り優先AEと言うファインダー越しの計器だけが頼りの綱だった。そんなカメラに散々振り回せながら悪戦苦闘の日々は割かし続いた。

 その当時何故僕がF3を持たされたのかがその意味が分からずにいた、とにかく扱う事に苦戦したカメラだった。その当時僕が抱いた気持ちは、何でこんな面倒臭いカメラ使わなきゃいけないんだ!僕もAFのカメラ使いたいよ!と悔しい思いを滲ませながらいました。その当時はF3の本当の真価も知らないまま…。因みにその上の人はゴリゴリにAFのカメラ使ってましたわ………

 しかもF3単体では連写が出来ない機械だったので一コマ撮影の度に一々巻き上げレバーを繰り返さないと撮影が出来ない、フィルムが満パンになったら手動でクルクル巻き上げと言った超面倒臭い機械だった。しかしオプションのモードラを装着する事で連写が可能な機械に化けてくれた、秒間で6コマ撮影可能、巻き上げも自動巻き上げ!それはもう僕にとっては何かが開けた様な画期的な逸材・オプションでした。

 けれどそんなモードラに必要なのは単三電池8本と言う驚愕の数が必要だった。だから本体とレンズ、モードラ、スピードライト等を全て組み合わせると総重量は2キロ超えに及んだ。それとフィルムを何本もを担いで現場飛び回る訳だから軽い筋トレと言っても過言ではない時代だった。

 そんな現場と一口に言っても報道関係の写真だから満足の行く環境下での写真なんて殆ど無いに等しかった、寧ろ過酷な環境下の中での現場が主だったので、撮る側もカメラとでっかいスピードライトだけを武器に飛び込む様な現場が圧倒的だった。

 高画質よりも現場の臨場感が求められる時代、そんな時代の流れとは言え、いかに今のスマホやデジカメ、白ホリによるスタジオカメラマンがとても優しく温い環境なのかが伺える場面もあったりして。

 だからストックなんかの人物撮影なんか見ているとつくづく優しい環境だなと感じたりもする。数日前からモデルハントしてスタジオ押さえて、小道具や衣装揃えて、ヘアメイクさんとか諸々を用意して、機材用意してハーイコレから撮影しまーす!みたいな。

 それが決して良いとか悪いとかではなく、どんなにストックでトップ張っている人でもスピード感や臨場感が求められる報道関係で通用するかと言われれば、きっと誰一人皆無だろう、そしてそれは逆も然りですが。コピースペースのある絵なんか持ってきたら即帰宅させられるだろうし。

 そんな状況下ばかりの撮影ばかりだったから、現像班のコッチとしても下手は打てないと言った真剣そのものだった。苦しい状況での撮影の時なんかは現像班であるコッチ側に全てを託される時もあったりして、現在の様にパソコンで見ながらぬくぬくレタッチなんて無く、アナログな技術を駆使して真っ暗な暗室でスピード仕上げの場面が圧倒的だった。

 当時は今のデジカメの様にデータ保存形式はSDカードや他の記録媒体なんて存在しない時代、35㎜のフィルムをベトナム戦争に行く兵士の様に体に沢山身体に巻き付けて現場に向かう時代、ある意味戦場カメラマン…。

 しかも報道関係だからスピードが第一と要求される場面も多々でした、特に深夜による選挙速報や突発的な事件等、後は輪転機に判子を掛ける寸前で飛び込みの事件があれば、輪転機は回転寸前でストップが掛かり、問答無用でバーっと現場に撮影に行き、記者は記事を走り書きしながら記事や写真の「差し替え」なんてもザラだった。

 そんな現在の写真界隈を俯瞰から眺めていると、とても恵まれた環境だよな、と感じたりもする。だって撮った写真その場で確認できるんだもん、良くなければその場で撮り直しも簡単に可能なんだから、パソコンであらゆるレタッチによる加工や補正が可能なんだから。機材さえ揃っていれば、誰でも撮れる環境、ある意味温い環境だよなと思ったりもします。

 そんなスピード感を具体的に表すと、深夜に開票される選挙速報の時は立候補の陣営に各々記者が開票前から張り付いていて、勿論現在の様にテクノロジーが発達していない時代だから数少ないアナログ要素満載な機器を駆使しての現場ばかりだった。投票の結果の開票でどの議員が当選したのかの確認はガラケーと言われる電話での遣り取りがマストな手段だった。

 そして当選した議員による万歳三唱の場面や、ダルマに目を入れると言った絵を撮影したら一目散に記者達が一斉に散りじりになり、携帯電話を耳と肩に挟んでデスクと遣り取りしながら車で会話しながら貴社に帰社する。記事と呼ばれる原稿(ゲラ)はすでにテンプレ的な感じで幾つも用意されているのでパッと差し替えるだけで済んだのですが、僕が担っている写真だけはそうは行かなかった。

 そんな記者が貴社に帰社したら、僕の所に一目散にフィルムが投げ込まれる様に飛び込む。一分一秒を争う世界の中で、ぬくぬくとした作業は許せない状況、スピードが要求される世界だったので、兎に角必死だった。無駄なタスクは一つも許されない、一つでも工数を減らしながら迅速に仕上げまで持っていく。

 そんな当時のフィルム現像の流れとしては、普通の写真界隈の人達はフィルムを現像したら、フィルムを乾燥させるのに約1日掛けて自然乾燥させるのがマストな時代。しかし我ら報道陣はスピードが命な世界だったので、フィルムを1日乾燥なんて温い事はご法度。そこで用いられるアナログな手法として用いられたのが、髪を乾かすドライヤーを使ってフィルムを乾燥させると言った手法だった。

 ドライヤーでの乾燥はとにかく早い!光の速さだ!みるみる内にフィルムが乾燥して行く。しかし同時進行で何本もの撮影フィルムを乾燥させる訳だから、そんなフィルムの乾燥作業も汗だくになりながらの作業だった。

 そしてドライヤーも毎日酷使する訳だから、2カ月も使えばドライヤー本体が故障して新しいドライヤーに入れ替え、時にはドライヤーから火花を散らしたりしながら。何度暗室でワーワー驚いて叫んだ事か。

 そんなフィルム当時の現像は普通の人達とは違う現像方法だった。普通のフィルム現像はフィルムの設定枚数の24枚や36枚が一杯になったらフィルムを巻き戻してフィルム缶を現像に出すと言った手段が圧倒的だったと思うのですが、当時の報道関係では「切り現」と言う手法がマストな現像方法だった。

 カメラに装填しているフィルムが半分位余った時に使う手法で、真っ暗い暗室で何台も並べている編集者達のカメラの位置をしっかり把握してから暗室の照明を消し真っ暗な環境を作る。

 カメラの裏蓋を開き、撮影している所までのフィルムをハサミでカットして、それを現像リールに巻き付け現像タンクに何個も放り込み現像液を流し込み作業すると言った感じです。化学薬品のパピトールやプロドール、ミクロファイン、ドライウェルなんて薬品、現代っ子は知らないでしょ⁉

 そして残ったフィルムは又カメラに装填して使うと言った手法の事です。そんな完全真っ暗闇での作業ですから、当時の一眼レフ特有のシャッター幕にハサミを入れたらそのカメラはオジャンになってしまう訳です。まさに手探り感満載の作業内容。

 そして何本ものフィルムを同時に現像する訳だから、現像から上がった後、それが誰の撮ったフィルムなのかを判別する方法にも工夫を凝らしたりしていました。フィルムの先端に折癖を付けてこれはAこれはBこれはCと言った具合に。当時は写メなんて無い時代、覚えた事や忘れそうな事はメモ書きが主流の時代。

当時の現像方法のメモ書き

 ココまでが当時のフィルム現像による大まかな流れで、話は撮影編に変わり、特に深夜による突発的な火災現場や殺人現場なんて言えば、有無を言わさず必要最低限の役者が夜中でも駆り出される。多少酔っぱらっていてもタクシー使って来い!と言った世界だった。その中でも特に印象強かったのは
ある夕方から翌朝にかけ、街の繁華街一体を包み込む大火災が起きた火災事件の時だった。

 その時、うろ覚えだけど確か2002年の6月頃、夏の日の土曜の夕方5時位の火災だった。最初は黙々と繁華街から静かに烽火の様な煙が立ち上がっていただけだったのだが、その煙は次第に大きく膨らみながら隣近所のビルなんかも巻き込み、やがて炎に変わりその炎や煙は勢いを増す一方だった。

 その日丁度僕は定時帰りだったので、既に家で空の瓶にタンポポを差すと言ったまったりしていた時だった。しかしその火災による煙は遠く離れた僕の実家からでもハッキリと見える程の大きな煙だった。それから数十分後会社から連絡があり、火事の知らせを聞き直ぐに会社に来るよう駆り出された。最初はどうせただのボヤでしょ?と思いながら、一応カメラ機材が入っているジュラケ1つを担いですぐさま会社へ向かった。

 最初は何なん!?と思いながら会社へ向かうと騒がしくも張り詰めた空気感そうして必要な役者だけが揃った中で緊急で内容を聞くと、この街で大きな繁華街で大火災が起きたとの知らせだった。すぐさま撮影に行けとの指示を上から受けて僕ら数人は撮影に放り出された。そんな現場に車で向かうと既に野次馬と呼ばれる群衆や渋滞の車の列により、とても入り込める余地は無かった。

 僕は一旦会社に帰社し、たまたまバイク通勤している先輩がいたのでその先輩に頼んでバイクの後ろに乗せてもらいながら必要最低限のカメラ機材を背負い込んで現場へと向かった、勿論ノーヘルだった。先輩はヘルメット被ってたけど……。

 そうして野次馬の群衆や渋滞をすり抜けながら、火災現場付近まで辿り着くと僕は先輩のバイクから降りて、カメラを担ぎ群衆と呼ばれる人波をかき分け現場付近まで走った。現場は既に何台もの消防車や消防員が消火活動を行っており、火災現場は火の粉を増す一方で消防員による消火活動。街に併設されている消火栓が足りない程だった。付近の飲食店、商店など二十一棟約七千平方メートルが全焼した。

 その光景はすざましく平たく言えば火の海だった、その昔「西部警察」と言ったド派手な発破やアクションシーンのドラマが可愛く思える程だった。 そんな消防署の消防車両の他、空港のタンク車等合計二十数台が出動し消火にあたった。又海保の巡視船三隻が出動し、市では緊急に災害対策本部を設置し周囲の住民に避難勧告を出した。そんな街は火事で電線が焼き切れたため同市内の約千戸が停電…。

 そんなこの街での繁華街の大火事は全国ニュースにもなる大きさで、あのトップミュージシャンの長渕剛さんも当時の繁華街に遠い知り合いがいたらしく、その事件を遠くながら心配していた程の災害でした。

 そんな消防員による消火活動の放水も火の勢いに追い付けず、焼け石に水状態だった。そうしてあるテナントから「バーン!」と言うけたたましい音による被弾での爆発音!そうしてテナントの看板が崩れ落ち、アスファルトに火の粉を散らしながら叩きつけられる、野次馬の群衆は驚きながら遠目に横で見ているだけだった。

 勿論消防隊員以外にも警察も総動員で約千人にも及ぶ野次馬の整理や現場を仕切りながら、そしてそこには既にスチールやテレビ局の映像カメラと言った各報道陣が揃いも揃って機材片手に現場を囲むように撮影していた。
上空からはテレビ局と思われるヘリが遠巻きにグルグルと周回を重ねながら

 しかしどの報道陣も電子制御のカメラやレンズにモーターが内蔵されているAFカメラだったので、前から襲い掛かる火災の熱気や火の粉や煙、煤によりカメラ内部のモーターが故障したり、フィルムカメラ特有のシャッター幕が熱でくっついてしまったり、カメラ本体が溶けると言った状況に皆悪戦苦闘していた。その熱気や火の粉により撮影を余儀なく断念された撮影陣も少なくなく、しかし僕が持っていたカメラはNikonF3、確か本体は全てチタン外装で堅牢性のある防塵防衛、ファインダー視野率100%、連写可能なモードラ付き、F3特有の横走りシャッター幕、そして完全マニュアル操作の機械!

 その時僕は瞬間的にコイツとなら行けるかも!と僅かな望みに賭けて消火活動をしている消防員を遮り、前からは灼熱の様な火の粉と身体全体を包み込む熱気、後ろから沢山の消防員による放水の水、そんな消防員にコレ以上近づくなと言われてもその言葉を顧みず、火傷も恐れずF3を抱いてに炎や水に包まれた現場に飛び込んだ。

 僕の持っていたF3はそんな過酷な現場でも、炎や消防員の放水に濡れながらもまるでその状況を把握してくれるかのように煙や炎を跳ね返しながら、僕の気持ちに応える様にガシャガシャと耐え忍んで動いてくれた。僕は手持ちのフィルムが切れるまで限界ギリギリまで攻めて撮りまくった、F3!お前こんな力持ってたのか!マジすげーよ!だったら頼むからもう少しだけ力貸してくれ!と脳裏で祈りながら、前から襲い掛かる煙や火の粉、全身の煤もそのままに…。

 それでも火の粉は勢いを増す一方、煙や煤を全身に被りながら許される限り僕は夢中でF3のシャッターをファインダー越しに切りまくった。そうして流石に手持ちのフィルムが切れたので一旦、現場を後に帰社した。その現場で消化したフィルムの数は10本、僅か2、3時間の間で約360枚強のシャッタをー切った計算になる。そうしてすぐさまそれを暗室へ向かい現像に掛けた。

 それでも火災現場の火の勢いは増す一方で、その勢いは深夜にまで及んだ。そんな火災が一旦鎮火したのは翌日の朝だった。そうして当時の編集長と話し合いが続きながら、出火原因も未だ分からない状況、それでも続く繁華街の火災にコッチ側も迂闊に飛ばし記事は書けない中、取り敢えず写真だけは一番インパクトのある絵作って置こうと言う事になり何枚もの現像し、写真を並べて明け方まで何度も話し合った。

 そうして繁華街を襲った大火災の出火原因もハッキリと分からない中、これ以上読者を待たせる訳にはいかないと言う事で、火災の現場状況やその時の一番インパクトある写真を添えて、記事の内容も現在分かる範囲での走り書きとなりながら、輪転機は朝方にようやく廻った。
 そしてそれはその日の朝刊の一面トップ三面記事として扱われ街にばら撒かれた、当時その現場に関わっていた各役者達は事件から翌朝まで張り詰めた空気に襲われたのか皆疲弊しきっていた。

 そんな中、僕をバイクの後ろに乗せてくれた直近の先輩が僕にこう言った

先ーなぁ、何かこう言う事件ってよ、いかにもマスコミっぽいよな!!!
僕ーはぁ~………ぅうん…。
僕は疲れ切っていて気の利く台詞が何も返せなかった…

 そうこうして取り敢えず一段落ついたのは出火から翌日の夕方だった。それまで無我夢中だった僕は暗室に散らばったフィルムやフィルム缶、何度も焼き直した印画紙や薬品の数々に囲まれていた。
そんなケミカルな化学薬品の香りに包まれ、くの字になって静かに倒れ込んだ…

 そうしてようやく何かに気付いたかのように僕は大火災や暗室作業でドロドロになった身体を他所に、フッとF3に目を向けると火災による火の粉や煤などにまみれながらも、凛々しく僕の隣で鎮座していてくれた。

 その時初めてF3と言うカメラによる真価や活躍ぶりを初めて教えられた、その時僕は一人暗室で呟いた「ありがとうF3、お前が相棒でなければあの修羅場を切り抜ける事は出来なかったよ…」そんなF3に初めて感謝をした記憶が目覚ましく今でも脳裏に残っています。だからこれから先どんなにテクノロジーが普及しようとも、F3は今までも今でもこれからも僕の宝物です。

そうして僕はその後一段落した時、F3を一度Nikonにメンテナンスとして出しました。とは言え現在は時代の波には勝てず、ゴリゴリのデジタルAFの一眼レフ使ってます。勿論メーカーはNikonです!が…でももうきっとこの先もあの瞬間を超える状況、カメラは現れないのではと時々思ったりもします。

 最後まで閲覧ありがとうございました!大好きだよF3!


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?