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私はそうでもなかったが父は私のことが大好きだった

ヒトというのは、必ず2人のヒトの存在があって生まれる。
もちろん、例外なく私もそこから生まれたヒトの1人である。

私はそうでもなかったが、父はわたしのことが大好きだった。
かと言って、いつでも優しいわけではないし、不機嫌なときはテコでも動かない非常に面倒くさい人だった。

たとえばまだ同居していたころ、私が早朝便の飛行機に乗るため「バスターミナルまで車で送ってほしい」とお願いしていた時も、寝ている父を起こしに行かなかったからという理由で不機嫌になり「もう行かない!」と捻くれてしまった。自分でちゃんと起きれていたのに。

独特のこだわりどころが理解できず、一度決めるともう意地でも動かない人だったので、私は「知らんがな!」と呆れてひとりで大きなキャリーケースをひきずり駅まで向かった。

正直だが頑固で怒りっぽい、THE・昭和の男である。そして周囲が驚くような発想を本当に実行するようなタイプで周りを困らせがちだった。
家族はそんな面倒くさい父との関わりをなるべく避けたし、気難しい父もそんな家族に近づこうとしなかった。
しかし、私に対してだけは、いつもなぜか関わろうとすることを辞めなかった。「パソコンの調子悪いから見てよ」とか「携帯にストラップを付けてほしい」「次はいつ家に来るんだ」とか。「忙しいから行けないよ」と言っても「頼むよ〜ね〜」とか言って粘った。
いつの間にか私は父の些細なヘルプサービスの役割を担うようになっていた。(ただし毎回は出動しない)

もともと父はデジタルガジェットが好きで、無線機とか携帯電話とかパソコンとかデジタルカメラなんかが発売され始めるといち早く取り入れるタイプだったので、私は小学5、6年生ぐらいでもうパソコンに触れるようになった。(90年代の当時としては珍しかった)

そこから自己流でブラインドタッチを覚え、ホームページを作ったり、いつの間にか父よりパソコンの扱いが上手くなっていたし、私もガジェットが好きになっていった。だからガジェットのことなどで分からないことがあると、私に聞くようになったのだ。もちろん全てをフォローできるわけではないけれど。

植物や何かの仕組みについて、わりと父は物知りだったので、小さい頃は私が色々と質問していた。
(子供なら必ずあると思うけど)あれは何?これはどういう意味?とか。でもあるとき「お父さんにも分からないことがあるんだよ」と言われ、「あっそうなんだ」と気がついた。
父はGoogleではなく、人間だったのだ。


いつの頃からか分からないが、頑固で変わり者の父に対して、私は「この人はこういう人だから仕方ないわ」と割り切って接するようになっていた。だから他の家族のように「どうしてこうなの!」と喧嘩をしかけたり、無理に何かをわからせようと説得したりしなかった。
それも父にとっては良かったのかもしれない。

"わからせようとする"母との相性は抜群に悪く、兄妹ふくめ家族の中で父が心を許していたのは私だけになっていったので、いま振り返ると私が緩衝材のようになってしまったと思う。
「お父さんはあんたの話だったら聞くから、あんたからこう言って」とか母によく言われた。

もしこれを読んでいる子育て中の方がいたら、ぜひ知ってもらいたいのだけれど、その子がみずから望んでやったとしても、子供を夫婦間不和の緩衝材役とか橋渡し役にしてしまうと、子どもはそうやって(ある意味でいつも他者本位で自己犠牲をして)生きることが自分の存在意義を感じるサバイブ方法のようになっていく可能性もあるので、夫婦の問題は夫婦で対話をして解決してほしいと切に伝えたい。


数年前のあるとき。
「有楽町から東京駅に行くところなんだけどさ、道に迷っちゃったんだよ〜」と、しばらく会っていない父から電話がかかってきた。
父はあまり都心部に出てこない人だが、その日は用事があったそうで珍しくその辺りにいた。

おそらく東京オリンピックに向けた都市開発の影響で昔に比べて東京駅周辺は大きく様変わりしたため、道に迷ってしまったのかもしれないと始めは思った。
「え〜。でもまだ仕事中だから行けないよ」
と言って電話を切ったものの、なんだか胸騒ぎがした。

よくスマホを失くしがちな父のために、
私はあらかじめiPhoneで父のスマホの位置情報がわかるよう設定していた。
父の居場所を見てみると、30分経っても同じところをぐるぐるしているようだった。
おかしいなと思って電話を何度かけても父は出ず、一定のコールのあと留守電につながるようになった。

このころ、オフィスワークのバイトをしていた私は、いても立ってもいられず早退させてもらいタクシーに飛び乗った。父はそこから車で20分程度の場所にいるようだったからだ。
もし父が電車に乗ってしまったら、探すのはさらに難しくなる。
どうかそこから移動しないでと祈りつつ、何度も通じない電話にコールしながら、父のスマホの位置情報を頼りに丸の内周辺で車を降りた。

もう19時前で、あたりは暗くなり、雨が降っていた。丸の内のビル街で父を探すには、暗闇も雨も傘も邪魔だった。道ですれ違う傘の中の人をさりげなく覗きながら歩いたが父は見つからなかった。

煌々と輝く商業施設内にも入ってあちこち探しまわった。もしかしたらどこかで座っているかもしれないし、トイレにいたりするかもしれない。見つけられるのだろうか。心臓がバクバクして、色んな「もしかして」がもの凄いスピードで頭の中を駆け巡った。

そして広い地下街の中を駆け足で探しまわった末に、ついに私は通路の隅で呆然と壁に寄りかかっていた父を見つけた。

数ヶ月ぶりに会った父の様子は、すっかり老人のようになっていて驚いた。
私を見つけると「よくわかったね」と嬉しそうだったが、話を聞いても受け答えがあまりスムーズにいかないところがあり、足どりもおぼつかない。
単なる道迷いではなく、軽い認知症も合間って状況がわからなくなっているらしかった。
それに、ボロボロに汚れたみすぼらしい格好をしていて、ひどいにおいもした。(認知症になると自分の衛生管理もできなくなることを後で知る)

わたしはその日、花柄のワンピースかなんかでちょっとオシャレ着を着ていたのだが、そのコントラストが余計になんだか父の老化と認知症の進行を象徴しているようで、現実を受け入れることが辛かった。
でも、とにかく実家に連れて帰らなくてはいけないので、手を引いて駅に向かった。
本人はそんなこと気にしていなかったが、電車内で異臭を放つ父のことを、周りの人は明らかに避けていた。仕方がなかった。


家族の認知症。
昔から風邪すらひかず健康面で頑丈だった父が認知症になっていく姿を見るのは、とても辛かった。
以前は父に頼まれごとをされても面倒で断ったり流したりすることも多かったけれど、認知症について理解を深め、なるべく優しく接するようにした。

でも、それは親孝行をするだとか父親だったからじゃない。
幼い頃から兄弟喧嘩になると、どんな理由であれいつもわたしの味方をしてくれたのは父だった。だから今度は私ぐらい味方になろうと思ったからだ。

家族として認知症を受け入れるということは非常に難しいことだと思う。
まさか、そんなはずは、という思いから否定したり、普通の人のように話そうとして苛々したりする。

今までの常識をあてはめて「なんでこんなことも出来ないの」「いい加減にしてよ」「自分でやって」と咎める母のやり方を見ていて、あまりにも酷だと思ったし、それは何の解決にもならないどころか、状況を悪化させていると感じたからだ。
行政の地域包括支援センターにも相談するようになった(めちゃくちゃお世話になった)


私が実家に行ったときは、父のケアを担うようになった。父の長くぼさぼさになった髪を切り、仙人のように伸びたヒゲを剃り、象のように硬くなった爪を切った。

母は「父に何かしようとすると喧嘩になる」と言って嫌がったが、今日は髪を切るよとか爪を切るよと私が言うと「あぁお願い、やってほしい」と言って素直に従ってくれたし、時にはお礼も言ってくれた。

爪はあまりにも硬く分厚く、普通の爪切りで切れなくなったので、Amazonでペンチのような形をした介護用の爪切りを買った。効果はばつぐんだった。


夏の日。
林の中のベンチで、モナカアイスを半分に割って父と食べた。
父は得体の知れない食べ物や洒落た食べ物が嫌いで、アイスといえば昔からあるソフトクリームのバニラ味しか認めない人だったが、同じような構成のモナカアイスは文句なしで食べていた。

父の膝を経由して地面にパラパラと滑り落ちるモナカの小さなくずを、アリ達がせっせとどこかに運んでいた。
暑さで液体になりポタポタ垂れるバニラアイスにもまた、アリ達は歓喜の祝祭をあげているようだった。

この日は晴天で風が吹いていて、揺らされた木々や葉っぱが重なり合うとさらさらと鳴り、林の中は涼しくて、気持ちがよかった。
見上げると、木漏れ日がきらきらして美しかった。父の機嫌もよかった。

その瞬間、「もうきっと父と過ごすこんな穏やかな時間は来ないかもしれない」という予感がして、切なかった。


果たしてわたしの予感は当たり、それから確か1か月後ぐらいだろうか、父は倒れて救急車で運ばれた。

入院や介護についても家族間の意見の調整が必要で、これがかなり精神的に疲弊し、同時期に仕事も忙しく、私はめちゃくちゃ白髪が増えたし不眠がちになった。


子どもの頃、「親子なら心臓のリズムが同じだったりして!?」という子供独特の謎仮説を持ったわたしは、寝ている父の胸に耳を当て、ドッドッドッと鳴る心臓の音を聞いた。
もちろんわたしの心臓のリズムとは違っていて、な〜んだ、とちょっとガッカリした。

いま、父はもういつ亡くなってもおかしくない状態になった。
このご時世で、死期の近い患者に対してだけ許される特別面会にも行った。
ガタイの良かった父の体は痩せこけて、目と口は開いたまま意識は無く、こちらから話しかけることはできても、反応は無い。

体は確かにそこにあって、心臓が動き、呼吸をしていた。
でも、父はもうどこかに行っていて、ただ器だけがとり残されてしまったように見えた。そこにいる父はまだ、父なのだろうか。よくわからなくなった。

10年以上前。
引越しのため父に車を出してもらったことがある。
当時住んでいた街は週末になると車が通れない道があり、あっちこっち曲がって通り抜けるまでに時間がかかった。
「行ったり来たりしてもらって悪いね」と言うと、なぜか機嫌良さそうに「なおのためなら、お父さんは何だってやるんだよ」と言って笑った。
意外な一言でびっくりした。

たぶん、他の家族は知らない父の愛情深い部分で、そんな事を言ったのは、後にも先にもその時だけだった。

愛してるよとか大好きだとか言われたことは一度も無い。
それでも、父はわたしのことが大好きだったと、わたしは分かるようになった。

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