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「痛い」と言えるほうがいい

私の左手の人差し指には、とある傷跡がある。
12年前に、カボチャを切ろうとして手が滑り、包丁でザクっといってしまった時の傷だ。

そのころ、私は友人2人と共同生活をしていた。当時の私は料理が苦手なものの、たまに簡単なものなら自炊することがあった。
それはたぶん、めんつゆを使ってカボチャの煮物を作ろうとした時だったと思う。

誤って包丁で指を切ってしまった。
でも、「あっ!」とか「痛っ!」とか叫んだり、慌てるリアクションができなかった。

すぐ後ろのダイニングテーブルを囲んだ椅子には、友人が座っていた。
その友人に指を切ったことがばれないよう、何事もなかったかのように手を洗って指をティッシュで包んで、その場をしのごうとした。

でも、思ったより深く切れていたようで、ティッシュではままならず、そのうち血が止まらなくなってしまった。

なぜ私が友人に指を切ったことをばれないようにしたのか。
わたしは子供の頃から、「感情的になることは恥ずかしい」と思っていた。だから痛くても我慢したり、嫌なことがあっても怒らないようにしたり、物事をなるべく穏便に済まようとする癖があった。

「わ〜痛そう〜!」とか言われて心配をかけたり、大袈裟に慰められたり騒がせてしまう状況も苦手だった。人に心配をかけることは、人に迷惑をかけることと同じぐらいに思っていた。とくに摂食障害だったそのころは、自分の感情を素直に表に出せなかった。

でも、さすがに血が止まらないので、観念して指を切ったとことを友人に打ち明け、「絆創膏ある?」と聞いて、処置した。
友人の方がびっくりしていたと思う。

そのときの傷跡が12年経ったいまも残っているので、相当痛かったと思う。でも私は、指を切ってしまったときに「痛い」と言えなかった。
左手の人差し指を見ると、そのころの自分を思い出す。

今でも感情を表現するのは苦手な方だけど、当時よりはまだマシになったと思う。

とくに1番身近な存在であるパートナーには、「やだ」とか「痛い」とか「イライラする」とか自由に言える。
それはたぶん、これまでの間に私の心の成長&人との出会いの繰り返しによって「言っても大丈夫な経験」を積んだからだと思う。

「しっかりした自分でいなきゃ」だった状態から、自分の弱さを人に見せられるようになったというか。

むしろ、痛いのに黙っている方が、相手にとっては「なんで言ってくれなかったの!?」ということにもなるのも理解した。

そういえば映画『ミッド・サマー』で、泣き叫ぶ主人公と一緒になって泣き叫ぶ村人たちのシーンがあったけど、あれって究極の慰めというか、感情を分かち合う肯定感を感じるんだよね。主人公もあの儀式を通してやっと他者との結びつきを実感できたみたいな。
だからなんかあそこまで出来るって、羨ましくもあるのよね。(映画はその後がやばい展開になっていくのだけど・・・)


さてさて、そんな、かつては心や体が痛いときに「痛い」と言えず、自分でなんとかしようと我慢して、どんどん坂道を転がっていってしまった私が書いた本が、今月末に発売になります。詳しい発売日はまた後日発表!
お楽しみに。




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