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意識研究、量子論、仏教の接点が見えてきた。気がする(その2ー実在)

一番「世界は『関係』でできている」で私に納得が言ったのが、世界の根本をどんどんと突き詰めていくと何か「モノ」が出てくる、わけではないという話。

これはおそらく、普通の考えと異なるだろう。

大栗博司さんの「重力とは何か」にも次のように書いてある

「結論から申し上げましょう。それがクォークかどうかは別にして、この玉ねぎには必ず「芯」があります。… 「プランクの長さ」が、宇宙という玉ねぎの「芯」です。」

私もずっと、どんどん微小世界を見ていけば芯が「モノ」として見つからないと変だと思っていた。Rovelliの考えはこれに反対しているのだと思う。

そして、この考えは、仏教、特にナーガルジュナの「空」の思想と同じだという。

Relational interpretation of quantum mechanics RQM では、

"The physical world must be described as a net of interacting components, where there is no meaning to ‘the state of an isolated system’, or the value of the variables of an isolated system. The state of a physical system is the net of the relations it entertains with the surrounding systems. The physical structure of the world is identified as this net of relationships. The notion of substance that plays a major role in western philosophy might be inappropriate to account for this science; perhaps the idea of a “mutual dependency” [Nāgārjuna 1995] may offer a relevant philosophical cadre." 

 まさに、「世界は『関係』でできている」という主張だ。量子論がこれでどう説明されるかは、本を読めばかなりわかりやすく書かれているので興味がある方はどうぞ。

この世界の根本は「関係」であって、「モノ」ではない、というのが、おそらく西郷さんから最初に圏論の話を聞いた時に非常にしっくり来た世界観の一つだ。圏論の圏は、モノ(対象=object)と矢印(関係=arrows, morphism)からなる。が、圏論を理解するにつれて、関係が主役というのがわかってくる。(集合論ではモノ、対象が主役)。

翻って、意識を生み出す脳の構造を考えると、それはまさに関係性の権化だ。どんなニューロンも、他のニューロンからの影響を受け、他のニューロンへの影響を与えるためだけに存在する。(ニューロン以外の感覚器や筋肉かからの入力やそれらへの出力を出すものもあるが、それは圧倒的なマイノリティ。)

そして意識の中身・クオリアについて考えると、これもまた関係性なしに考えられないというのが、我々の論文(認知科学に載せた日本語のもの)であり、クオリア構造のアイデアの根幹だ。

赤クオリアを感じるということは、それが赤クオリア以外とどう関係しているか。ある一点でそれが赤と感じられるには、他の視野の場所の感じとその一点がどう空間的・時間的・特徴的に関係しているのか(文脈)。他に感じられる可能性のある感覚とどのように関係するか(記憶を含んだ、Counterfactualな関係性)。

どうやら、マッハは、主観世界も客観世界においても、物質も精神においても、こういう関係性こそが全ての根本であるといっていたっぽい。そして、そういう意味で、世界を2元論的に捉えるのはおかしいと言っていたらしい。この直観(というか、形而上学的なバイアスを剥ぎ取ったときに残るのはこれだけなのでは?)がかなり私の直観に近い。

そして、このマッハの考えと、最近読んでいる naive realism についてのGenone の論文を読んでいるうちに、わたしが今まで現象学に持ち続けてkきた違和感がはっきりしてきた。ブレンターノやフッサールは「志向性」という概念で「自己」から「世界」に向かうタイプの矢印を特別視しているように感じる。マッハは、この自己というものに特別の地位を与えない。もちろん、860億個のニューロンからなる脳が生み出す関係性はとんでもなく複雑だ。が、そこに潜む何らかの特殊な関係性が、世界の成り立ちを決める根源的なものとみなすほど特殊か、というとそれはそうでないという。これこれ。この直観が私の考えに近い。

仏教でも「自己」などない、という話が出てくる。今まではしっくりこなかったが、たしかに脳科学の最近の知見を考えるとそれはいくつかの脳の機能の集合として機能主義的には考えられるし、現象としてもすぐに亡くなってしまうことも多い。なので、自己にその理論の基礎をおくような理論は現実にあわないのではないか。

他にも色々と考えていることはありますが、興味ある方は、明日の西郷さんとのYoutubeを聞きに来てください。質問があれば答えますし、わたしの専門外の話だらけになるので、間違い・勘違いを正してもらえると助かります。

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