だから、安心して生きていこうね
朝、目覚めて、まだ霧の残る白い靄のかかった外に、出てみる。
紅葉の始まった、色とりどりの木々が、白い靄の合間から浮き立ち、しんと静まり返った空間に、小鳥がモミの木のてっぺんに留まり、さえずりはじめた。
ああ、ここから私の物語が始まるのだ、
と分かった。
私の頭の中で、自然と起こる独り言。
色づいた葉を、美しいと言い、こちらの木は、まだそれほど紅葉が始まってはいないと言い、
雲に覆われた、遠くの山を眺めて今日の天気を予想する。
木に留まった一羽の鳥に、相方はどこだと話しかける。
これらの言葉が、自動的に私の頭から放たれるとき、
これが、私の世界というものか、と。
色づいた葉を、美しい、と思う前の、瞬間、
天気を予想する前の、遠くの山にかかる雲を見た瞬間、
たった一羽の鳥のさえずりを聞いた瞬間。
そこには、何もなかったはずだ。
ただ、「それ」以外には。
「気づき」がなければ、
自動的に流れる思考の声を、
私は、どんどん追いかける。
遠くの雲を見て、天気を予想すれば、
お昼からのお店の客足はどうだろうか、
雨が降るようならば、スープをたくさん仕込んでいたほうがいいし、
そういえば、今日から新しいスタッフが入ってくる。
彼女は、この仕事を好きになってくれるだろうか、
この仕事に合っているだろうか、
でなければ、私は、再び求人をしなければならないな。
いつの間にか、私は目の前の景色から遠ざかっている。
もしも、
自分の紡ぐ、物語に気づいて、
違う方法で、この世界を見てみるのなら、
ただ、
思考が入ってくる前の、瞬間だけを真実として見るなら、
「あなたは、私、私は、あなた」
という、本当の意味が分かるかもしれない、
と。
その言葉が、本当には、何を意味しているのか、
様々なところで見かけるこのフレーズの、深遠さを、知ってみたいと、20代の頃から思っていた。
この瞬間に在ることで、
対象は消える。
色づいた葉は、思考が入りこんでくる前は、私と一体だった。
それがあまりにも、繊細で、瞬時で、控えめだから、
私たちは、声の大きく、主張してくる思考の方に、気を取られて、
そこに在るものを、見逃してしまうのだ。
ワンネスを。
思考なく、ただあるがままの相手を見ることが、
無条件の愛だと、理解することもできる。
思考者とは、思考そのもの。
私ではないもの。
朝の景色の、清々しさに、
私の物語が始まっていくのを、「観て」いる。
観れば、それはすうっと、何事もなかったように、消えていく。
思考は、「観る」という光に照らされれば、消えていく。
実際は、掴むものも、掴めるものもなく。
この瞬間の平安と、静けさが、目の前でどんなことが起こっていようとも、
ここに在ることに気づいた。
誰も、この平安を奪うことも、損なうことも、できない。
だから、
安心して、
生きていけるね。
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