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自由に書く~6日間のライティング・リトリート①

「自由に書く」とは、どういうことだろう?

何の制限も自分に与えずに、私たちは「書く」ことが本当にできるのだろうか?

何年にも渡って、私たちは、学校で「文章の書き方」を学んできた。

「こうあるべき」的な文章教育。 例えば、辻褄のあった文章、はっきりした目的のある文章、起承転結・・・そして先生からのダメだしの赤ペンつきのノートがかえってくる。

まわりとの比較や、競争、他人の目に、自分の文章がどう評価されるのか、どのような題材が書くに値するか、「正しい」書き方への執着。

そういった書くことへの心構え、規律、が、私たちには身についてしまっている。お行儀の良い、「文章の書き方」というハコから出るのは至難の業で、私たちは、自分に「自由に書く」ことを、口では言っても、実際には、「ある程度」の域を超えてはいないのでは?

 
私自身、自由に書く、というのが本当にはどういうことなのか、「心を開くライティング」のクラスを持っている友人、アンディから教えてもらうまでは知らなかった、ということに気がついた。




もちろん、「こうあるべき」的な文章教育は、役に立つ。

誤字脱字のない、起承転結のある、誰にでもわかりやすい文章を書くことは、持っていて損のないスキルだ。
でも、だからって、「書く」という本来の楽しみを教えないのは、罪深い。

役にたたない、誤字脱字だらけの、意味のない、支離滅裂で誰にも分かってもらえない文章を書くことの楽しさは、自分を愛し、そのまんまの自分を抱きしめるのと似ていた。

目的なしに書いていいのだ。
ばかばかしくても、違法なことでも、子供じみていても、意味がわからなくても、どんなことでも書くのだ。ぜんぶ自分から出てくる表現なのだから、どれが良くて、どれが劣ってる、なんてことはあり得ない。すべてが真正な表現なのだから。

ジャッジメントなしに。

そう、アンディが教えてくれた。

そして、「自由に書く」ことができればできるほどに、私たちはどんどん深層意識に下りていき、気づいていなかった自分に出会うことができる。迷子になっていた、自分だけの言葉を見つけることができる。

「あれ、こんなの出てきたよ」、
という発見がいくつも現れる。



「自由に書く」ことへの扉は、「遊び」だ。

「書く遊び」を通して、正しいとか、こうあるべきとか、そういった制限を抜けることができる。

だって、遊びだから。

遊びには、高尚さは必要ないどころか、害になる。ばかばしくていいし、意味不明でも問題ない。そして、これが一番大切なこと、

遊びは楽しい。

私たちが、書くことで ”遊ぶ” を 自分に許可すれば、潜在意識は解放されて、文章を分析したりしようとすることから自由になる。書くことの真の楽しさを取り戻すのだ。


 
アンディの「心を開くライティング」の6日間のリトリートは、自由に書くことを、私にふんだんに体験させてくれた。そして、それだから、私の心はすっかり緩んで、書きながら、子供のように笑ったり、泣いたり、素直な表現を楽しんだ。

実は、リトリートから戻ってきて、一週間もたってない。
いまだにそこで得た、大切な宝物の全容を広げてはいない。今回使った2冊の大学ノート、「遊び」で使った、たくさんのインデックスカード、リトリートで出会った仲間が出版した、私が惚れてしまった本・・・、
そして形にはなっていない、見えない何か。

それらをこれから、時間をかけて眺めてみるのが楽しみ。

それは本当に自分へのギフトだった。


実際のリトリートの様子はこちらで。


https://www.amazon.com/Writing-Open-Mind-Tapping-Subconscious/dp/1569754764


アンディの writing open the mind の言葉はここでも。

 
 
 
 
 
 
 
 


 

 












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