見出し画像

悪い習慣を絶つために「強み」を犠牲にしてみる

こんにちは。今日は「犠牲」について。えらく長文になりました。


今、何を犠牲にしてでもやりたいことは?

今回は「今、何を犠牲にしてでもやりたいことは?」の問いかけから考えを膨らませてみました。

人間は社会で生きていく中で様々な配慮をしたり、されたりしていると思いますし、そのための能力もある程度育っている人が多いと思います。

私で言えば真面目さ、慎重さ、あとは内省・言語化などの特徴が強く働いています。

こうした特徴が真面目に人と向き合い、事を進めるときは根回しなどを行い慎重に、なるべくわかりやすい語彙や説明を心がける、などの強みに通じているのでしょう。

ですが。「本当のところ自分はどういう状態になりたいのか」というと、これらの強みを発揮した状態とはややズレるんですよね。

卑屈さを脱却したい

さて、冒頭の問いかけに私が出した答えは、「卑屈と呼ばれる(そう自分で思う)人格を脱却したい」でした。

現在の私の思考には、

  • 会話の中で自分を褒める言葉・ポジティブな言葉を強引に言わせている可能性がある 

  • 人間関係における「全面的な信頼」は存在せず、そこに自分が近づくときにはブレーキをかける

  • 多くのトラブルには自分にも責任がある

  • 自分の性能は学んだスキルに依存していて、やり方さえ適切なら展開可能

あたりが存在しています。

結果として、褒め言葉や信頼を素直に受け取らない、自分の基礎能力を過小評価するなどの動きが生まれますが、正直それは人生を小さくする要素のほうが強いかな、と思います。

犠牲にするべきこと

では、この「卑屈さからの脱却」のために犠牲にすることはなにか。

まず卑屈さで得ているメリットを棄てることは大前提です。

これは素直に褒め言葉を受け取らない習慣をつけておくことで傷つくリスクを下げる、自分をあらかじめ低く見せておくことでいざというとき高い評価を得るなどが該当します。

ですが、それを棄てる意識だけでは卑屈さからの脱却は困難だとも感じています。

マイナスを棄てきってゼロにするだけではプラスにはならず、再びマイナスに戻るリスクとの戦いになってしまうからです。

方策は2つ。卑屈さの逆にあたる習慣をつけること・一度それ以外の卑屈さにつながる強みを切り捨てることです。

さらに犠牲にするべきこと

まず「卑屈さの逆にあたる習慣」として、褒められたらそれを疑わず大いに喜ぶこと。加えて、否定されたときに自分(だけ)が悪いと思わないことが必要だと思います。

しかしこれは今回の問いかけである「今、何を犠牲にしてでもやりたいことは?」の答えには不足です。

この記事の最初に「真面目、慎重さ、内省・言語化を使ってもなりたい姿とはズレる」と書きましたが、追加で棄てるべきはこれらの強みだと思います。

今の私が目指すべきは 
人に褒められることをした→嬉しい・今度もやろう→完 
であり、強みとしての内省や真面目な解釈は不要でしょう。

強みとして考えてしまうことはあるにせよ、オチは「嬉しい」を目指すべきです。

具体的には?→日記はじめました

そんなわけで私が始めたのが「3 good things」です。寝る前にいいことを3つ書き出すというアレですね。

このフォーマットであれば卑屈さ・それに紐づく自分の強みが挟まる余地は減少するかな、と期待しています。

実際どうなるかは実験を続けてからの判断にはなるでしょうが、ひとまず一週間やってみようかな、と思う、というところで終わりにします。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?