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恋なんて、しなきゃよかった。

二十歳の頃、千葉の八千代台に住んだことがあった。
京成線で日暮里から1時間くらい。縁もゆかりもない、まったく知らない街だった。

当時おつきあいした人に「一緒に暮らそう」と言われて借りた家。結局、彼がその家に入ることは、一度もなかった。

その頃、私はプロアスリートとして、朝は飲食店、日中は自分のトレーニング、夜はトレーナーのバイトをして稼ぎ、なんとか生活していた。
ずっと、恋をしている暇なんてなかった。
学生時代からそうだ。おかげで、いまだに恋愛偏差値が低い。
それでもよかった。好きなことをやって、毎日必死に生きて、それで「生きている」と感じた。

飲食店のバイト先に配属されてきた若い雇われ店長は、店の制服よりスーツが似合う、いかにも真面目そうな男だった。
その頃の私といえば、金髪のショートに赤のメッシュを入れ、客から見える部分だけ帽子に隠してバイトしていた。
生きる世界の違う人間。興味もなかった。
私より5歳上で、歳より大人に見えた。とはいえ、店長も20代。しばらくすると長く勤めていたバイトリーダーから、理由のない陰湿ないじめが始まった。

ある日、店の床にまき散らかされた書類を片づけるのを手伝った。時々、話すようになり、たまには一緒に酒を飲むようになった。

どんな流れで、店長とキスをしたのか覚えていない。

酔った勢いでキスすることなんて、世の中ではなんでもないことかもしれない。恋愛オンチな私の脳が勘違いするには、十分な体験だった。

彼に手をひかれて上野広小路をぼんやり歩き、路地を入ったところにあるガッチリした額縁のような門をくぐって2、3歩階段を上がり、冷たい自動ドアの先に光る部屋の写真のボタンを彼が押した。何もかもが、単なるなりゆきだった。

そこから起きたすべてのことに、意味なんてなかった。

私は自分を鍛えあげるためだけに費やしてきた時間を彼に捧げた。夜、仕事が終わると、慌ててシャワーを浴びて、言問通りを自転車で走り抜ける。
大関横丁の近くに借りていたアパートに帰ると、たいてい店長がいた。近くに営団地下鉄の三ノ輪駅があって、終電ギリギリまで部屋で過ごした。

夢のような時間は、夢だった。

相変わらず、陰湿ないじめは続き、店長の様子は明らかに変わっていった。
会社は黙認していた。時々、その地域の統括マネージャーの男が来ては、一緒になっていじめに加担した。身長が高くでっぷりと腹が出て、赤毛の天パーがのっかった変な男。いじめ仕切りのバイトリーダーだって本職は売れない役者で、いついじめられる側にまわってもおかしくない人間だった。
みんな、店長をいじめることで、自分のポジションを保っていたのだ。

そして、ある日。

店長は消えた。店の金を数万もって。
お金には困っていなかったはずだ。きっと小さな復讐だった。

家族が捜索願を出し、警察沙汰になった。
店長へのいじめについては、誰も口にしなかった。

余計なことを口にする人はいた。
「あいつ、店長とつきあってたみたいですよ」

私は何も知らない。
何も知らなかった。その数日後までは。

数日後、店長はアパートの部屋にいた。
思考停止して立ちすくむ私に、彼は言った。
「一緒に逃げよう」

どこか遠く、知らない街に逃げよう。
二人で暮らそう。

あのとき、彼がどれくらい本気で言ったのかはわからない。
できるだけ遠くに部屋を探して、内見もせず契約した。目の前のこの人を助けなきゃいけない。ただ、そう思った。

逃げるための服の替えもない、必ず返すから。そう言われて10万円を現金で渡した。契約したお金も必ず返す、と。
返してもらえることなど、最初から期待していなかった。
それでもよかった。
人に頼られることで、自分の存在価値を感じた。

契約した先の不動産屋に渡された部屋情報のコピーを持って、店長はまた消えた。

1時間電車にゆられ、真っ暗な家に帰った。
2LDKの家は大きかった。布団の用意もない家。
荷物は、円柱型のスポーツバックに収まるものしか持ってこなかった。
窓にはカーテンの替わりに、継ぎはぎの養生紙が貼られていた。カーテンだって、一緒に選ぶと約束した。選ぶ日まで、それでいい。

私は待った。何ヶ月も、ずっと待っていた。
でも、店長は来なかった。音沙汰もなかった。
怖くて、私からは連絡できなかった。

その日も京成線に乗り込んだ。
仕事を終えて帰る時間には、ろくに人もいなくて、イスに寝そべっていられるほど空いていた。
にわかに緊急ブレーキがかかり、車両がゴトっと揺れた。

「人身事故です」

車内アナウンスが流れた。
急いでもいないし、まぁいいか、と本を読んでいた。
窓の外が明るい。ガヤガヤしている。
なんの気なしに窓の外に目をやると、人の脚らしきものが見えた。

その瞬間、夢から醒めた。

もう待つのはやめよう。
全てすべて、意味なんかなかったのだ。
私なんか、誰かに好きになってもらえる価値なんてない人間だ。ずっと、そうだった。
金髪の筋肉の塊みたいな女の子が、何の夢をみていたのか。バカみたいだ。
早く、気づけばよかった。
いや、本当は気づいていた。
それでも、もしかしたら。彼なら、信じていいのではないか。
そんなことを思った、私がいけなかったのだ。

翌日、不動産屋に解約の電話をした。

風の噂に、店長は警察につかまったとか、金を返して本社に示談にしてもらったとか、どこか田舎にとばされて系列店で働いているとか、ウソか本当かわからない話を聞いた。

店長失踪事件の直後から朝は違う仕事を見つけていたが、相変わらず日中はトレーニング、夜はトレーナーをやっていた。
1年たった頃だろうか。そこに、1枚の封書が届いた。
差出人の名前はなかった。

入っていたのは、すこし前に流行ったモンゴル800のCDアルバム「Message」と、メモ紙だった。

あれから、あの家にいったんだ。
いるわけないよね。ごめんね。
あなたのしあわせを、遠くから祈ります。

もう二度と。
二度と本気の恋などしない、と胸に誓った。

それから、何人か恋人と呼ぶ人はいたし、結婚もした。離婚もした。
シングルマザーになってからは、恋なんて考えもしない生活を送っていた。

なんでこんな古いことを、思い出してしまったんだろう。
ろくでもないことが頭をめぐる夜に限って、冷蔵庫にはチューハイの1本すらなかった。

近所のコンビニに駆け込んで、カゴに2本ロング缶を放り込んだ。
レジで慣れない店員が釣り銭を確認するのを待っていると、深夜の店内放送からあいみょんの声が聴こえた。

恋なんてしなきゃよかったと
あのときも あの夜も
思っていたの

そう。
もう、恋なんてしないと心に決めていた。

「恋をする」のは、自分を信じることだ。
誰かにとって愛される存在であると、信じること。
私にとっては、最も難しいことだ。

私はこれから、私の価値を認めてあげられるだろうか。私は、私を許してあげられるだろうか。
恋にハッピーエンドがあることを、信じられるのだろうか。

何度もふき消そうとしたろうそく。消え入りそうに揺れる小さな火を、今度はそっと両手でつつむ。

いつか。
この恋が、実りますように。
小さく祈る、私がいた。

──────

こんな恋の話。
こちらの本を読んだら、書いてみたくなりました。


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