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子どもにはかなわない理由

今年5月に移転オープンしたわたしと夫のウェブサイト『Table Talk』
オンラインショップで販売した夫のイラストもありがたいことにほとんどが売れていき、現在は新作アップをお待ちいただいている状態だ。
また、オーダーイラスト制作のお申し込みも多いのは、受注から納品までの流れや料金についての表示を明確にしたこと、依頼主に納品した後にご本人が喜んでくださっているコメントや写真を公開していることも少なからず影響しているのかもしれない。

10年以上続けているブログもコンスタントに更新していて、そのなかで予想以上に反響が大きいのが、娘の日々のつぶやきをポストするコーナー。このコーナーをつくろうと思ったきっかけは、以前noteにも書いた。

文字通り「おまけ」のつもりだったのだが、最近読者の方から届くメールには必ずといっていいほど「『みちるのひとこと』のコーナーが大好きです」「読むたびに、子どもの視点にハッとさせられます」といった一言が添えてある。今月から新学期が始まり、学校に通う日々になってからは名言(もちろんわたしから見て)が飛び出す頻度も増えていて、ときには1日に数本のつぶやきをポストすることもある。わたし自身は普段ツイッターをやっていないため、「自分の心が動かされた言葉を、感動の鮮度の高いうちに記録しておきたい欲求とは、なるほどこういうものなのか」と意外な角度から腑に落ちるきっかけとなった。

「なんかいい予感」という感覚

映画制作者が「子どもと動物(を主役にした作品)には勝てない」と話すのを、よく耳にする。
どれほど秀れた監督や芸達者な俳優や、素晴らしい原作や脚本を揃えた良質な映画も、愛くるしい子どもや動物が、その姿と存在だけで人々の心を癒して涙腺を崩壊させるような作品にはかなわない、といった文脈で語られることが多いようだ。
わたし自身は前者の良質な映画を好んで観たいタチなので、「そういうものかな」と思っていたが、現在、受験生である娘の親塾講師として、授乳期以来こんなにも娘と近い距離で過ごしたことがあっただろうかという生活を送るなかで、やっぱり子どもの感性は特別であること、大人はとうていかなわないものであることを、日々感じている。

たとえば、娘が口ぐせのように言う「今日はなんかいい日の予感」という言葉。
朝の計算ドリルが満点だった日、朝食のお皿に好きなものばかり並んでいる日、一度で髪を上手に結べた日、お気に入りのTシャツを着た日。そうした小さな「やった!」が起きるたびに、子どもは「今日はなんだかいい日になりそう」って思うらしい。

もちろん大人だって、そうしたことで機嫌はよくなる。でも、そのたびに「今日はなんだかいい日になりそう」ってわざわざ言葉にして、そばにいる人に伝えることまではしない。一人でちょっとウキウキするくらいだ。しかし子どもが言葉を発するとき、そこには何の意図も狙いもない。感じたことがそのまま言葉になって口をついて出るだけだ。だから、聞いている方は不意を突かれ、ハッとする。

感情の変化は本来こんなにもはげしい


「いい日の予感がする」ということは、逆のケースも当然起こる。
親や先生の機嫌が悪くてちょっとしたことですごく怒られたとか、問題を何度解いても不正解だとか、忘れものをしちゃったとか、出された食事のメニューが今ひとつだとか。そんなとき、娘はこれでもかというほど大きなため息をついて負の感情をさらけだす(それでまたわたしや夫に注意される)。つい数分前に「今日はいい予感」と言っていたのに、今はもうふてくされて特大のため息、なんてこともしょっちゅうで、まるで近頃の不安定なお天気みたいに目まぐるしい。

また困ったことに、勉強の気分の乗る・乗らないが、まぁはげしい。そこに理屈はないのだ。
気分の乗る・乗らないなら、大人にもある。でも、気分によって日毎の成果に波があってはいけないと、大人はみんな思っている。というか経験上、学んでいる。子どもにはその経験や学びがまだない。そうすると、気分と成果の波が感心するほどはげしくなる。

わたしも夫もそんな反抗期の子どもの相手をしていると、穏やかな精神状態をキープできることはたった一日でも難しいのだけど、娘を学校や塾に送り出してみると、さっきまでのむきだしの子どもの感情表現を振り返りながら、思わず笑ってしまう(それは苦笑いともいう)。
同時に、感情や気分って本来はこれくらいさかんに動くものなのかもしれないなぁ、と感心する。

こうやって2千字近くも費やしてせっせと書き連ねた文章より、11歳のてらいのない短いつぶやきの方が、読む人の胸を、深い部分まで刺す。
それは明らかすぎて、嫉妬すらできない。

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