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50歳の位置付け

わたしは1972年生まれ、今年49歳。
夫は1970年生まれ、昨年夏に50歳になった。

夫とは出会った当初からまるきり同級生感覚なのと、40代半ばあたりから、正確な年齢にあまり執着がなくなってきたこともあって、夫とともに自分もすでに50代に突入したような気でいる。
実際は、40代がまだあと1年半も残っているというのに。

最近続けて、「世間における50歳の位置付けって一体どういうものなのか」と考えてしまう瞬間があった。

受験が終わった直後の春休み、という天国の日々を満喫する娘と、朝の情報番組を観ていたら、お花見用の自動運転ロボが紹介されたときのこと。

へー、こんなのおもしろいねぇ、と言い合いながら眺めていた画面に、利用料金が映し出された。
「一般 ¥1,800  こども(3歳〜小学生)¥1,200 50歳以上 ¥1,200」。

え、50歳でもう割引してくれちゃうの?  なんで???


その翌日、大好きな平松洋子さんの新刊『下着の捨てどき』を読んでいた(買ってみて気づいたが、5年前に買った単行本が今も本棚に並んでいる『彼女の家出』を改題した文庫版であった。でも、いいの)。

名画座の魅力が楽しげに綴られたエッセイを読んでいたら、無性に、「わたしも名画座で2本立てとか、観たい!」という気分になり、ネットでいくつかの映画館をチェックしはじめた。
そこへ、夫がふらりと近寄ってきたので、「名画座に行きたくなって、調べてるんだ」と話すと、「そういえば、僕もう50歳だから、一緒に行けば一人¥1,100とか¥1,200で観られるんだよ」と得意そうな顔で返してきた。

あれ、たしかに! そのサービスは知っていたけど、いつのまにか自分が適用の対象になっていたなんて。

「受験が終わったらやりたいこと」として、スマホのメモに箇条書きで記録していたなかには、はっきりと「映画をたくさん観る」という文字が残されている。せっかく50歳の連れ合いがいるのだから、ありがたくサービスを活用して映画を観まくるっていうのも、いいのかもしれない。でも……けっこう忙しいよね? わたしたち。お互いのスケジュールを調整して一緒に映画に出かけるなんて、日常的にできることじゃない気がする。

大人の自覚が本当にないんです


まだ40代なのにすでに50代の気分、というのは本当。
でも、子どもがやっと小学校を卒業したくらいでは、暮らしや気持ちにゆとりなんて生まれないのだ。

仕事だって、20代後半でフリーになって以来、アシスタントをつけたことさえない。年齢と経験だけはそれなりに重ねてきたが、ベテランや大御所なんてポジションにはいまだ遠い(ちなみに職業的にもあまり心配はいらないのだが、業界で『大御所』と呼ばれる人たちとのいくつかの苦い経験から、自分は一生そう呼ばれたくないと思っている)。

よって、年齢で区切れば世間からシニア向けサービスを受ける対象に自分が入っていること(いや実際はまだ入っていないのだけど、ってしつこいか)に、ちょっと戸惑ってしまう。
夫を見ていても、49歳の翌年に50歳になった、というだけで、急に貫禄が出たとか悟りを得たとかいう様子もない。それどころか、ドラえもんが大好きな小学3年男子のマインドを、今もしっかりとキープしながら生きている。
来年のわたしも、そんなふうになんのわかりやすい変化も成長もなく、ぼんやりと50歳を迎えるだろう。

なのに世間では、どうやら40代と50代の間に、太い線が、くっきり、きっぱりと引かれているようだ。
「その線から手前は現役、線から向こうは、第一線から退いた後の人生」という暗黙の共通認識もあるのだろうか。

まぁ実際わたしも20代や30代のときは、「50代といえば、ひととおりの苦労は経験して、ちょっとやそっとのことでは動じない人生のベテラン」というイメージを抱いていた気がする。

でも、いざ自分が50歳目前になってみると、全然違う。
自慢じゃないが、12歳の娘に負けないくらい、わたしの気分は毎日ざわついているし、悩みや迷いも多い。

そういえば先日、『徹子の部屋』に出演したあいみょんが、「両親は47歳」と話すのを聞いて、絶句した。
現在26歳のあいみょんは、6人兄弟の上から2番目、年子の姉とすぐ下の妹はすでに4人ずつ子どもを産んでおり、つまり47歳の御母堂は、8人の孫を持つおばあちゃんだという。孫まで生まれたら、さすがに「いまだに大人の自覚ない」なんて言えないだろう。たった一人の子育てにもアタフタしているわたしとしては、同年代でもこれほどまでに人生の歩みに違いがあるものなのかと、途方に暮れてしまいそうだ。

しかし仕事にかぎっていえば、わたしのようなフリーランスは、年齢によって自動的に立場を上に押し上げられることがない。だから、ずっと現場で働いていくのだという、ある種の切実な覚悟を持ち続けられる。
これは、好きなことを仕事にした身としては、やはりしあわせなことではないだろうか。自分がやめると決めないかぎり、働きたければ、もちろん生涯バリバリといえるかどうかはさておき、一生でも続けられるのだから。

「第二の人生」もやっぱりいい

自ら選んだフリーランスという働き方に、いろいろ不安はあっても概ね満足しているわたしたち夫婦だが、一方でこんな思いもある。

テレビネタばかりで恐縮だけど、土曜夕方に放送されている『人生の楽園』といえば、まじめに会社勤めをしてきたお父さんが、定年や早期退職などによって蕎麦屋さんやペンション経営、陶芸を始めるなどして、第二の人生を謳歌する姿を紹介する番組。


わたしは一人暮らしをしていた20代のころからずっとこの番組が好きなのだが、先日夫が、「最近、ここに出てくる人が『あれっ、同い年じゃん!』ってことがたまにあって、すっごく不思議な気持ちになる」と言った。

そう言われて気をつけて観ていると、たしかに、同年代とくくっていい50歳代の「楽園の住人」が、ちょいちょい出てくる。
みなさん、たいていは20代30代と子育てに奮闘し、その子らが独立して夫婦だけの生活になってから、あらためて夢を描き直し、50歳を境に新たな一歩を踏み出しているようだ。

うーん、これはこれで、いいなぁ。
人生の前半と後半が、はっきりしているというか。

わたしは、自分が経験した34歳の結婚と36歳の出産が、遅かったとは思っていない。
むしろ自分にはちょうどいいタイミングだったと思っているのだけれど、世間一般の「ここからはシニア」という年齢に差し掛かったとき、自分のライフスタイルや感覚を、そこにうまく重ねられないという事態が、現に起こりはじめている。
きっと、結婚や出産をせずに50歳を迎える人だって同じような戸惑いがあるんじゃないだろうか。「え、わたしってシニア? そうだったの?」と。

そのワードが存在しない世に

それはさておいても、思うのは、子どもが小さくても、あるいはいなくても、組織で上に立つ人物ではなくても、大人の責任はちゃんと引き受けるべきで、若い世代から人生の年長者としての役割を求められるのであれば、未熟ながらも誠実な行動や態度で応えたい、ということ。

また、ヘルシーに歳を重ねることと、無理して若ぶって見せることをはき違えないでいたいとは、つねづね思っている。

つまりはエイジングに逆らうでも、あきらめるでもなく、いつだって「今やれることはやる」という姿勢でいたいのだ。
そのうえでの本音として、自分で自分のことを「オバサン」などと言ったり書いたりするのは断固として控えたいと思っている。
もちろん、わたしより年下の人が「もうオバサンだから」と言うのも、なるべくなら聞きたくない。どうしたって微妙な気持ちになるから。

なんというか、言葉のアクが強すぎる、と感じるのだ。
そのワードが発せられることで、場の状況や雰囲気がよくなる効果を感じた経験がないし、むしろ逆のはたらきをする残念さの方が印象として強い。
このかすかな侮蔑を含んだ呼称は、なければないで世の中的に何も困らないし、むしろない方が、マナーのある気持ちのいい世の中になりそうな気がするのだけれど、どうだろうか。

そういえば、平松洋子さんの『下着の捨てどき』は、中年以降の人生で誰もが経験する身の回りの変化や戸惑いを、上品な自虐と諦観とユーモアをちりばめながら軽妙に綴ったエッセイだが、本のなかに「オバサン」という表現を見た記憶がない。そのワードを排除したところで、女性がジタバタしながら年をとるおもしろおかしさは、十分に伝えられるのだ。
どのエッセイにも共通する、肩の力がほっと抜けるような清々しい読後感は、憧れの先輩がそのことをそっと耳打ちするみたいにおしえてくれたみたいで、なんだかすごく元気が出た。


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