「見上げれば、クジラ」最終話(第8話)
その日の夜、優子はパパの部屋にいた。
帰宅したばかりのパパが、渡すものがあるからと優子を部屋に招いたのだ。
「これを、相沢さんご家族から優子に渡してほしいと預かりました」
受け取った紙袋に入っていたのは、フォトアルバムだった。
開くと、優さんと制服を交換したときに撮影した写真たちだった。
ポーズをとったり、ただ笑いあっていたり、二人で写った写真ばかりだ。
マスキングテープでデコレートされていて、丁寧に作られたアルバムだと感じる。
「パパも、見て」
いったん閉じてから、パパに渡した。
受け取り、アルバムをめくるパパの表情が、驚きから笑顔に変わる。
「二人とも幸せそうだ、とても」
「楽しかったよ。いっぱい笑ったんだ」
「うん、うん、素敵な笑顔ばっかりだ」
目尻を拭いながらもパパは嬉しそうで、優子まで嬉しくなる。
「僕、もっと知識を増やして、自分の性とかで悩んだり困ったりしている人の役に立ちたい」
優子ははっきりと言った。
具体的な職業はまだ決められないけれど、それも含めて、もっと知識を得たいと思っている。
悩んだり困ったりしている人の役に立つために。
「そうか、パパは応援するよ」
アルバムを優子に返し、パパは優子の肩に手を置いた。
「うん。それから、ね」
そう言って、優子は少し下を向いた。深呼吸してから、顔を上げてパパの顔を見つめる。
「僕の上に浮いていたクジラのこと、覚えてる?」
「もちろん覚えているよ」
「クジラさんは、ママだった。でも、見えなくなっちゃった」
優子の告白を聴いたパパは、目を見開き、大きく息を吸った。
それから、ゆっくりと息を吐いて、額に手を当てた。
「そうだったのか……」
「見えなくなってもそばにいる、って、メッセージをくれたよ」
「そうか、そばにいてくれるのか、これからも」
うなだれるパパの腕に、優子はそっと触れる。
それに気づいたパパは、顔を上げて優子に笑顔を見せた。
「教えてくれて、ありがとう」
夕食後、優子はパパと一太朗さんと朱美さんと、話をした。
「あたし、は、男だからとか女なのにって考え方がとても気持ち悪い。自分のことを、あたし、って言うのも、嫌なときもあるから、これからは、僕、を使います」
優子は緊張しながら、そう宣言した。
「それじゃあ、優子ちゃん、って呼ぶのもやめたほうがいい?」
と、朱美さんは優子に問いかけた。
優子はこくりとうなずいた。
「呼び捨て、か、くん、がいい。ちゃん、は、いや」
「わかった。気をつけるけど、しばらくはちゃんってつけても許してね」
「うん。ありがとう」
「ほかに、こうしてほしい、とか、やめてほしいことはあるか?」
一太朗さんは腕組みをし、むずかしい顔をしたまま、優子に尋ねた。
「うーん……今は思いつかないや。一太朗さんは、ないの? してほしいこと、やめてほしいこと」
優子の宣言から始まった今夜は、いつもよりずっと長く、たくさん話をした。
パパは、ママの写真をリビングにも飾りたいと言った。
一太朗さんは、喫茶店でラテアートを練習しているから今度飲みに来て欲しいと言った。
朱美さんは、
「実はね、小説を書いているの」
と言って、自分のスマホで投稿サイトにアップしたページを見せた。
「読めたら読んで、感想をきかせてね。読めないなら、読まなくていいけど。ほら、好みの文体とかあるじゃない? だから、無理に読めなんて言わないから」
朱美さんは早口でそう言い、恥ずかしそうに微笑んだ。
優子はパパたちのやりたいことを知ることができて、嬉しくなった。
そして、応援しようと、味方でいようと決めた。
休み明けの月曜日。
優子は教室にいて、誰からも話しかけられなくても、以前より平気になっている自分に気づいた。
大きな話し声や笑い声はやっぱり苦手だから、驚いて固まることもあるけれど、その後は深呼吸を繰り返す。
びっくりしたね。大丈夫だよ。
そんなふうに、声に出さずに自分に話しかけながら。
今日はとくに期末試験前で、休み時間も静かに勉強する生徒がいるから、ということもあるだろう。
だが、優子の、楽しみなことが放課後に待っている、というわくわくも大きく影響している。
アルバムには、優さんからのメッセージカードがついていた。
「放課後に、カフェ・アンド・ギャラリー・おふで、試験勉強を一緒にしませんか」
塾のある曜日は何時まで、ない曜日は何時まで、いったん帰宅して着替えてから行きます、と添えられていた。
パパは了承してくれたし、カフェ用に特別のお小遣いもくれた。
だから、優子は放課後になるのが楽しみで、クラスメイトの誰にも話しかけられなくても平気だった。
優子がおふの近くに着くと、優さんが店の前にいるのが見えた。
「優さん!」
優子は手を振って、走った。
そこへ、角から自転車が走り出て、優子の目の前を走り抜けて行った。
「!」
優子は立ちすくんで、頭から血の気がひいて足が重たくなったように感じた。
「優子さん、呼吸して、ゆっくり吸って吐いて」
駆け寄った優さんに、優子はうなずき、ゆっくりと息を吐いて吸った。
優さんと一緒に深呼吸を何度か繰り返すうち、感じていた足の重たさはおさまった。気持ちも落ち着き、優子は優さんに笑ってみせた。
「ありがとう、落ち着いた」
「よかった。おふで座って、もっと落ち着こうね」
いつも以上に慎重に周りを確認しながら、二人並んでおふに入った。
「いらっしゃいませ。お好きな席へお座りください」
やわらかな笑みで海さんに迎えられ、二人は前回と同じテーブル席についた。
水を出してくれた海さんにカフェオレを頼み、優子は出されたばかりの水を半分ほど一気に飲んだ。
「あーびっくりした! 優さんも驚いたよね、ごめんね、ありがとう」
優子がそう言うと、優さんはテーブルに頬杖をついて眉根を寄せて、こう言った。
「うん、びっくりした。クジラさんが止めてくれないんだから、気をつけなきゃ」
聴いた優子は、目をぱちぱちさせた。
そうだ、もうクジラさんに頼れないんだ。自分で気をつけなきゃいけないんだ。
クジラの不在の影響に気がついた。
「曲がり角、気をつける」
「うん。私も気をつけなきゃ。よかったね、気づけて」
と、優さんは微笑むように息をこぼした。
「そっか、大怪我する前に気づけてよかったのか!」
そう優子が納得すると、優さんはこくこくとうなずいた。
優子の心に、クジラへの感謝が湧きあがった。
今まで守ってくれてありがとう、ママ。
優子はそっと目を閉じて、心の声だけでそう言った。
目を開くと、優さんはさっそく教科書とノートをテーブルに並べていた。優子も教科書とノートをカバンから取り出して、勉強にとりかかった。
「昨日、家族に、自分のことを僕って呼ぶことと、ちゃんづけで呼ばれるのは好きじゃないってこと、伝えたよ」
優さんがカフェオレに手を伸ばしたことに気づき、優子は勉強の手を止めて優さんに報告した。
「そう。嫌な感じにならなかった?」
そう尋ねてから、優さんはカップに口をつけた。
「うん。大丈夫だった。パパたちのやりたいこととかも聴いて、応援しあおうってなったよ」
「素敵な家族ね」
「そうだね、きっと」
優さんの言葉がこそばくて、優子は照れ隠しにカフェオレをぐびっと飲んだ。
「僕の知ってる人の中では、優さんが一番素敵だよ」
優子がそう言うと、今度は優さんが照れてカフェオレをぐびっと飲んだ。
「ほんとうに、ありがとう。アルバムも、……クジラさんが行っちゃったときも」
あの日、あの時。
クジラが空高くへ消えた時。
優子はその場に崩れるようにしゃがみこみ、あふれる涙を止められなかった。
胸が苦しくて、両手でぎゅっと押さえていないと、もっともっと苦しくなりそうで、涙をぬぐうことすらできないでいた。
「我慢しなくていいんだよ、泣いて、いいんだよ」
背中に手が添えられて、優さんの声がそっと降ってきた。
体を小さくして唸るように泣いていた優子は、その言葉で、自分が我慢しているのだと理解した。
「うわーーーーーーーん」
優子は、産まれてきたばかりの赤子のように、泣き叫んだ。
「ママ、ママ……」
荒い息の狭間に溢れる声は、ママを呼ぶばかりだった。
胸を押さえていた手はいつのまにか、地面について上体を支えていた。
「ママ……」
口をつく言葉はそれだけだった。
優子の中は言葉にならない想いや思い出が嵐のように目まぐるしく現れては消えて、また浮かぶ。
毎日見上げてきたクジラの姿。ときに高く、ときに低く、優子の頭上に浮かんでいたクジラ。
守ってくれていたことへの感謝。
クジラの不在という欠落感、絶望、不安。そんな暗い感情。
そして、優子はクジラが大好きで大好きで、大切なかけがえのない存在だったと、痛烈に自覚した。
号泣は数分ほどだったか。
優子は顔をあげ、顔に残るなみだを手の甲で乱暴にぬぐった。
ぬぐって、空を見上げた。
その表情はぼんやりとしていて、優子の背中に手を添え続けてくれている優さんを不安にした。
「僕、は、味方、になって、応援、したい」
言い終えた優子は、優さんをじっと見つめ、そして、はにかんだ。
「困ってる人の問題が解決するように、役にたつことをしていきたい」
はっきりと、宣言した。
「たくさん泣いたから、空っぽになったと思ったんだ」
そろそろ勉強を再開しなければと思いつつ、これだけは優さんに言いたいと、優子は思っている。
優さんは相槌をうって聴いてくれる。
「でも空っぽになってなくて、残ってたのが、僕の夢、だった」
自分の中に残っているものを見つけた喜びのままに、優さんに宣言していた。
「そうだったんだね」
そう言って優さんは大きく頷いて、こう続けた。
「あのときの優子さんの目力はすごかったよ。直前までぼんやりしてて心配だったけど、急にキリッて」
「そ、そう?」
「うん。もう、別人かなってくらい」
「ええ?」
優子は思わず自分の頬を両手で挟んだ。
「あのとき、わたしも、自分の夢を絶対に叶えるって決めたんだ」
わたしは医師になる。自分の性に悩む人を、医療で助ける医師になる。
だから、一緒にがんばろう。
そう言ってくれた優さんの、強い意志が宿る瞳を、優子は思い出した。
その瞳は今も優子の目の前にある。
強く輝いて。
「がんばろうね」
眩しくて目を細めながら、優子は言った。
「うん、がんばろう。まずは目の前の試験勉強だね」
「だね」
笑い合って、二人は勉強を再開した。
「二人ともなんだか急に大人びた感じがする。急いで大人にならなくてもいいのに。ちょっと寂しいかも」
会計の際にそう言って目を細めた海さんに見送られ、優子は優さんとおふを出た。
「優子さんは背筋が伸びたね」
道の端で向かい合うと、優さんは優子を見てそう言った。
以前ほどうつむかなくなった自覚は優子にはある。だから、優さんが気づいてくれたことが嬉しかった。
「大人びたっていうのかわかんないけど……優さんが、優さんが描いた絵の人に似てきたかも」
文化祭で見た、大好きな人たちが笑顔でいる未来を見つめている着物姿の人物。優子が慈悲深いと表した人物が、優さんに重なった。
「……嬉しいかも」
と、優さんは微笑んだ。
「それじゃ、塾、いってらっしゃい」
「うん、いってきます。優子さんも気をつけて」
危険から守ってくれるクジラはもういない。自分が気をつけなければならない。
優子は大きくうなずいた。
互いに背を向けて歩きだした。
けれど、優子は、はっとして立ち止まり、振り返った。
「優さん!」
呼ばれて振り向いた優さんに、優子は空を指さす。
「お月さま、きれいだね!」
空の高いところに月が見える。
優さんはぱっと笑顔になり、それから大きく手を振って、
「また明日!」
そう言い残して、再び歩き出した。
「また明日ね!」
優子は優さんが角を曲がって消えるまで、笑顔で手を振り続けた。
また明日。
そう約束できることが嬉しくて。
クジラのいない景色に浮かぶ月にさみしさも感じながら、優子は前を向いて歩き出した。
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