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「見上げれば、クジラ」第2話

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 優子の通う中学校の文化祭は、クラス別の合唱の他、部活動ごと展示・発表、有志による展示・発表が行われる。
 同学年の合唱を聴くこと以外は何を観覧してもいいことになっている。
 一年生の合唱を終えた優子は体育館を出て、パパと合流した。
「よくがんばりました」
「うん、がんばった」
 がんばって歌った。クラスメイトたちからはみ出さないように、がんばって歩いて立って歌って歩いた。
 パパが見ているし、屋根の上にはクジラがいるはずだからと、がんばれた。
「パパはこれで帰るよ」
「美術部の展示は、見た?」
 と訊くと、パパは企んでいるようなにやり顔になった。
「もちろん。優子はこれからだろ?」
「うん。どんなだったかとか今は言わないでね」
 パパの表情からは、優さんの絵は上手だったのだろうくらいは伝わった。けれど、見る前に情報を入れたくない。
「わかってるよ。晩ごはんは何がいい?」
「パパが作るグラタン」
「お、まかせとけ」
その場でパパと別れて、優子は美術室へ向かった。


 L字型をしている四階建ての校舎の、二階の短い辺の端っこに美術室はある。
 開放されている扉から中をのぞくと、窓際の角に置かれた椅子にちょこんと座って本を読む生徒がいた。
 優さんだ。
 他に人はおらず、優子はそっと中に入った。
 すぐの壁には、石膏像せっこうぞうが描かれたデッサン画たちが貼られている。
 美術部員全員が同じ石膏像を描いているが、角度が変わり、技術の差もあり、同じ絵は一つとしてない。
 優さんのデッサン画は他の生徒の絵と比べて柔らかい感じがする。
 それらを過ぎると、イーゼルに立てかけられた絵画が壁際窓際に並び、部屋の中央に置かれた大きな机には木彫などの立体作品たちが並んでいる。
 優さんの作品は、本人が今座っている場所とは反対側の角に置かれていた。
 それは着物姿の女性を横から見るように描かれた絵だ。大きなリボンで髪をまとめ、子供にも大人にも見える女性が、縁側に腰かけ庭を眺めて微笑んでいる。
 その視線の先には何があるのだろうと、想像力をかきたてられる。
 優子は絵をじっと見ていたが、隣に気配を感じてそちらを向いた。
「この人は何を見ているの?」
 自分の作品を見つめる優さんに、優子は問いかけた。
「優子さんはこの人が何を見ていると思う?」
 逆に問われて、優子は絵に向き直った。
「大好きな人、たち、かな」
「それもあるよ」
 優さんの声が少し弾んでいるようで、優子は思わず目を向けた。
 と、優さんと目があった。おろした長めの前髪に隠れているけれど、その目は笑っていた。
「答えは?」
「正解はないよ。見た人がそれぞれ想像してくれたものが正解。でも、大好きな人たちが笑顔で幸せに過ごしている未来を見ているところを想像して描いた」
 それを聴いて改めて見ると、描かれている人物は目の前の景色ではなく、はるか遠くにある何かを見ているように感じられた。
「モデルはいるの?」
「読んで感動した小説の登場人物。顔とかは、今まで描かせてもらった人たち、とか、を、参考に」
「とか?」
「とか」
 言って、優さんは笑顔で肩をすくめた。
「その小説、読んでみたいな。こんな聖母みたいな女の人が出てくるなんて、興味ある」
「聖母?」
 驚いた様子で優さんが言ったから、優子は目をぱちぱちした。
「うん。慈悲深い、って言う感じ? あれ、聖母とは違う?」
 優子は言いながら、首をかしげた。宗教的なことも絵画にも詳しくないので、間違った思い込みかもしれないと不安になったから。
「聖母像は参考にしなかったけど、慈悲深い存在は参考にしました。仏像を」
 と言う優さんの言葉に、優子は納得した。
 長い髪にリボンをつけているから女の人だと思ったけれど、それ以外は男性とも女性ともいえないような印象を、優子は感じていた。仏像と言われれば、なるほどと思えた。
「……ますます読みたくなった。なんていうタイトル?」
「貸すよ。明後日、学校に持ってくるから、放課後にここで渡すよ」
 そう、優さんが約束してくれたから、優子の心の熱がぴょんと上がった。
「わかった、ありがとう!」
 明後日、学校に来る楽しみができた。


 この日の学校からの帰り道、優子は何度もクジラを見上げ、笑みがこぼれるのを止められなかった。
 家に着けば、パパの手作りグラタンが美味しくて、優子はやはりニコニコしていた。
 なのに。
 代休の月曜日、優子は熱を出してしまった。
「咳もしているし、おとなしく寝ていなさい」
 そう言うパパのほうが辛そうな顔をしていたので、優子は素直にうなずいた。
「熱が三七度五分を越えたら病院へ行きましょうね」
 今日がもともと休みの朱美さんが、家にいて看病してくれる。
「でも、辛かったらちゃんと言ってね」
「はい」
「朱美さん、よろしくお願いします。それじゃ、パパは行ってくるね」
「いってらっしゃい」
 部屋に一人になった優子は目を閉じて布団をすっぽりかぶった。
 明日は学校へ行きたい。だから、今日はしっかりと休んで治そう。
 だって、優さんに本を借りる約束をしたんだから。


 翌朝、優子の熱は下がったけれど、咳は治まっていなかった。
「今日は休みなさい」
 パパは優子の頭をなでながらそう言った。
「マスクつけてればいいでしょう?」
「ぶり返すかもしれないからダメ。優子が治りきっていないのに学校へ行ったら、パパは心配で仕事に集中できないよ」
「わかった。おとなしくしとく」
「しんどくなったら、一太朗さんにちゃんと伝えるんだよ」
「はい」
 今日は一太朗さんが休みだ。一太朗さんは毎週火曜日は必ず休みをもらっている。ご近所の友人たちと将棋を楽しむためだ。
「一太朗さん、将棋行ってきなよ」
 お昼ご飯に、一太朗さんが作ってくれたたまご雑炊と、昨夜食べられなかった肉じゃがを食べた。
 食器洗いは一太朗さん。咳も治った優子はその隣に立って食器を拭きながら、洗い残しがないか確かめている。
「今日は優子とのんびりしたいんだが、俺は邪魔か?」
「そういうことじゃなくて、お友だちに会えないと寂しいんじゃないかなって。咳ももう出ないから平気だし」
 汚れを残さずきれいに洗えるのだから、毎日でなくても食器洗いしてくれないかな。優子はそんなことを思いながら、一太朗さんに言った。
 すると、一太朗さんはあははと笑った。
「寂しくないさあ! 子どもの頃からの友だちなんだ、ちょっとくらい会わなくたって平気だ」
「そうなんだ」
「優子は学校を休むと友だちに会えなくて寂しいだろうが、大人になると毎日会わなくても平気になるんだ」
「へえ」
 毎日会えないと寂しいと思う友だちはいない。これから、出会うだろうか。
「部屋でおとなしくしとくね」
「おう、食器拭いてくれてありがとうな。ちょくちょく様子見に部屋に行くが、なんかあったらすぐに呼ぶんだよ」
「うん、わかった」
 優子は二階の部屋に戻って、ベッドにうつ伏せに寝転んだ。
 毎日会いたい友だち、ではないが、優さんから本を借りる約束は気になって仕方ない。
 優子は優さんの連絡先を知らないので、優子が休んだことを知らせることができていない。
 優さんは放課後遅くまで優子を待つかもしれない。約束を破ったと怒るだろう。
 もう話せなくなるかも。
 そう思ってしまい、視界が潤んだ優子は枕に顔を押しつけた。


 インターフォンの音で、優子は飛び起きた。いつのまにか眠っていたらしい。
 一太朗さんが応対している声が聞こえるが、何を言っているかまではわからない。
 階段を上ってくる足音が聞こえたので、優子はベッドから降りた。するとドアがノックされ、直後、一太朗さんが顔をのぞかせた。
「起きていたか。相沢優くんが来てくれたが、どうする?」
「会う! とりあえず、玄関まで行くから待ってもらって」
 パジャマのままの優子は慌ててパーカーを羽織った。それから、鏡を見ながら髪を手櫛で押さえつけた。洗面で顔を洗いたいが、玄関で待っているはずの優さんに洗面所に駆け込むのは見える間取りだから、我慢する。大丈夫、ヨダレの跡も枕の跡もないし、念のためのマスクをつける。
 足早に階段を降りて、優子は玄関に向かう。
「優さん、こんにちは」
 私服姿の優さんに、優子は挨拶を投げてから、
「どうして?」
 と、疑問を投げていた。
 優さんは、白Tシャツにタータンチェックのロングシャツを羽織り、あげた前髪をピンで留めている。
 メイクはしていないようだが、前髪と伊達メガネに隠れていない優さんの目はパッチリと大きい。
 やっぱりかわいい、アイドルみたい。優子はそんなことも思っていた。
「どうして家を知っているか、は、父経由で優子さんのお父様に教えてもらいました。どうして何のために来たのか、は、本を貸すためとお見舞いです」
 そこまで言って、優さんの笑顔が弾けた。
「どういう手段で、は、歩いて。ときおりスキップしたりして」
「スキップ!」
 優子も一太朗さんも声をあげて笑い、三人分の笑い声が響いた。
「時間があるなら、あがってください。おいしいクッキーをお出ししますよ」
「あ、いえ、塾があるのですみません」
 目尻の下がった一太朗さんの誘いに、優さんはぺこりと頭をさげた。
「優子さん、これ、言ってた本。シリーズ物だから、他の二冊も持ってきたよ」
「わあ、ありがとう」
 三冊の文庫本が入った手さげ袋を優子は受け取った。
「元気そうで安心した」
 優さんがそう言ってくれたから、優子の心からこみあげるものがあった。
 心配してくれたという嬉しさと、心配かけて申し訳ないという気持ちが、大きさを変えながら繰り返し浮かんでくる。
「今朝には平熱になってたんだけど、咳が出てて。でも、もう咳も出ないから明日は学校行くと思う」
「そっか。じゃあ今日はのんびり過ごして、暇だって感じたら本、読んで」
「うん。ありがとう」
「あ、でも、返すのはいつでもいいから、じっくり読んで」
「わかった。しっかり読むね」
 大きく頷きあってから、優さんが一太朗さんにもう一つの紙袋を差し出した。
「これ、母から預かったお菓子です。みなさまでお召し上がりください」
街で有名な洋菓子店の袋を、一太朗さんが受け取った。
「お気遣いありがとうございます。ご両親にもよろしくお伝えください」
「はい」
 優さんの受け応えが大人びていて、優子はドギマギした。
「それじゃ、また、優子さん」
「うん、またね。優さん、ありがとう」
 一太朗さんが優さんを家の外まで見送りに出たので、優子は二つの袋を持ってダイニングルームに入った。洋菓子店の袋からお菓子を取り出して眺めていると、一太朗さんが戻ってきた。
「礼儀正しい子だな」
 そうだね、と言いながら優子はお菓子をテーブルに置いた。
「男でも髪にピンつけてオシャレにしてて、今どきの子って感じで。優子よりオシャレに詳しいんじゃないか」
 一太朗さんの言葉に、優子の心が冷たさを放った。
「だろうね」
 その言い方は自分でも驚くほど刺々しいものだったから、優子は文庫本の入った袋を持って、
「夕ご飯まで寝る」
 ぼそっと言ってダイニングルームを出て、階段を駆け上がった。
 一太朗さんが何か言ったようだったけれど、心がざわざわし過ぎて、優子は聞こえなかった。


 部屋に戻った優子は、優さんから借りた本を机に並べた。
 一冊の表紙に貼られた大きめの付箋に、
『優子さんへ シリーズ二作目の登場人物が絵のモデルです。どれから読んでも楽しめると思います。 優』
 と、丸みのある字で書かれていた。
 一作目を持って、優子はベッドの上に体育座りして、壁に背中をもたれさせた。深呼吸をしてからページを開き物語を読み始める。
 優さんが貸してくれた物語の世界へと、優子はするすると入っていった。



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