あの日、不登校になった私は人間になれた
こんんちは、Naoです。
今回は私が不登校児だったときの話をしようと思います。
私は中学1年生の後半から不登校になりました。
当時の記憶はあまり覚えていない。
ただ1つだけ覚えているのは、社会から落ちたと確信したこと。
だからこそ不登校になったときは悲しかった。
だけど今思い返すと、そんなに悪い事じゃないかなと思える。
なぜなら、あの日私は人間になれたのだから。
学校ではたくさんのことを教えられた。
いっぱい教えられてコレという物はでてこない。
ただ1つだけ思うのは、綺麗でいることを教えられたと思う。
もちろん「綺麗でいろ!」とは言われてはいない。
例えば、先生の話は静かに聞く。周りの空気を読む。イジメは悪いことだ。宿題は絶対出す。休むことはよくない。学級委員は真面目な子。読書感想文は、当たり障りのない一般受けされるような文章がだいたい賞をとる
どれも社会人としては重要なポイントだとは思う。
宿題(仕事)は真面目に取り組んで、提出することは当たり前だ。チームの和を乱さないため、空気を読んで当たり障りのないことを言う。
学校は社会でうまく生きていくためのポイントがたくさん詰まっている。
社会に似合う綺麗な人間になれるよう教えられていたのだろう。
他にも綺麗であることを教えられたと思う理由はある。
例えば…
いじめられている側がいじめている側へ反撃すると、先生が注意するのは大抵いじめられている側(被害者)を注意する。
なぜか?
正確な答えは知らない、教師じゃないし。
普通だったら加害者側を注意するはずだ。(そもそもイジメが起きてる時点で注意しろよ)
私が思う1つの答えは、救済処置といった感じだろうか。
人を傷つける行為は許されるものではない。今ここで被害者が暴力をしてしまうと加害者と同様に傷物になってしまう。傷物になってしまうと社会に出て損をする可能性が出てくる。
なので被害者を将来的に救うため、被害者を傷物にしないため、綺麗で有り続けるために被害者を注意するのだと思っている。
まぁ加害者はもう手遅れって意味合いであんまり注意しないんかな。
私の数少ない学生生活(小~中)で教えられたことはコレだ。
他にも綺麗であることを教えられたと思う。
ただそれのおかげで不登校になった…
宿題は真面目にやって、空気を読んで。イジメやケンカはしない。
そのおかげで真面目というレッテルが貼られ、学級委員に。
学級委員を真面目にこなした。
自分で言うのもアレだけど優等生だった。
勉強もそこそこ出来る、将来は良い大学を出て、有名な企業に就職するもんだと思っていた。大人(社会の一部)にになれると思っていた。
ただ大人への階段はそう易々と登らせてはくれなかった。
学級委員を真面目にこなさなければという謎の概念に縛られ、本当の自分を隠して、本当の自分を殺してまで貫き通そうとした。勉強も頑張った。
その結果、自分が死んだ。
もうそれ以上先の記憶は通信制高校入学までほぼ記憶がない。
2年以上の月日の中で思い出せるのは1つ2つ。2年以上、私は死んでいたも同然だった。
私は学校でそんなことを先生の言ったことをきっちり守るクソマジメな人間だった。それ以外の道を知らなかった。誰も教えてくれなかった。
学校はあくまで社会に都合のいい歯車を作るための場所に過ぎなかった。
私が本当に知りたかったのは社会にふさわしい綺麗な人材になることじゃない、生き方の選択肢を知りたかっただけだ、夢の見方を教えて欲しかっただけだ。
社会的に綺麗であることは、自己犠牲の精神で社会に貢献することだった。
社会に必要なのは人間の器をした何かだった。人間としては綺麗でも汚くても変わりない、ただ綺麗な器だった。
社会に都合の良い歯車になるためにしか私は生きていなかった過去があるから、私は人間として生きることを決めた。
もし私が不登校になってなかったら、ロボットになっていたと思う。
感情を失い、ただ与えられたタスクを遂行するだけの器だけの何かになっていた。
私は社会的に見たら弱者だ。学校という組織についてけなかった落ちこぼれだ。ただの社会不適合者だ。
だからどうした。
ロボットになるよりかは遙かに良い。もう私は社会の歯車になる気はない。ましてや大人の階段を上るつもりもない。
人間は心を持ち、己の意思で行動する生き物だと思う。
私は人間として生まれて、人間として生き、人間として死んでいく。
たったそれだけのことだ。
汚くても構わない、社会の歯車でも大人でもなく、1人の人間という生物として生きていく。
ここまで読んでくださりありがとうございました。
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