書くことがない、ということ。
こんにちは。なおきです。
困りました。ネタ切れです。
いま僕はnoteに毎日投稿するということを目標にしています。
シンガポールで疲れ果ててしまった時など、2日抜けた以外は何かしら投稿を続けています。いつも頭の中で考えている事柄や、紹介したいスポットをまとめたりしていますが、今日に限っては投稿したいテーマが全く思い浮かびません。どうしようと思いながら、つらつらと書いています。結論がないかもしれませんがご了承くださいませ。
noteに投稿している理由
僕はお金をもらって文章を書いているわけでも、プロの物書きを目指しているわけでもありません。ブログを始めようと思ったのは、たまたま泊まったゲストハウスのオーナーに勧められたからです。旅を経て2人がどう変わるか見てみたい。記録としてブログに残してはどうか、と。
自分探しの旅、というと青臭い感じがしますが、まさに自分の内面を旅の中で探っています。心は日々形を変えていくのに、前日の夕飯さえ覚えていられない記憶力では、心の変化は追うことが難しいでしょう。自分が何を感じ、どう考えたのかは、文字に書いて記録した方が良いと考えていました。でも、それだけなら日記をしたためるだけですむ話。わざわざnoteというプラットフォームに書いて人に見せるのはなぜなんだろう、と自問。
①三日坊主を克服するため
有言実行。人に目標を伝え、その行動結果を見える化することで、ズルをできないように自分を追い込んでいます。
②完璧主義の病を克服する
僕が「完璧主義の病」と呼んでいるのは、「完璧でないとダメだと思い込んで、いつまでも行動できなくなる精神状態」です。この言い回しはわかりにくくないだろうか。こんなことを言うと傷つく人がいやしないか。この表現は誤解されないだろうか。こうした深読みと考え過ぎで、にっちもさっちもいかなくなり、結果自分をダメなやつだと格付けしてしまいます。毎日投稿するためにはかなりの割り切りが必要。読んでくれる人がいる以上、手抜きはなし。でも完璧でなくてもいい。そう割り切れるようになることが目的ということです。日記だと手を抜いてしまいますからね。
③なにかが起きるかも
さゆりさんに言われたことです。僕の考え、思考を言葉にして発信したら、なにかが起きるかもしれない、と。僕に起きるのか、読んでくれた人に起きるのか。旅に出たら、予想外の出来事が起こるように、僕の心がお出かけしたら、なにかと出会うかもしれない。それも出してみないとわからないことですね。
しかし、書くことがない
書くこと。僕にとっては内面をさらけ出しているみたいなもの。書くことがないということは、僕にいま、「さらけ出せる内面がない」ということではないか。
考えていることはいくつかある。デパートの数多くの商品たちが僕に関係ないものであることに経済のバカでかさを垣間見てみたり、残業に少しイライラした自分の心の内を言葉にしてみたり。でも、それらはさらけ出せる内容ではない。
いや、さらけ出せる内容じゃないと、自分で決めつけているだけだな。自分の心の言葉に価値は決められない。価値があるか、ないかは勝手に僕が値踏みしているだけだ。多分上の二つは投稿する文章にしてみたら5行くらいで終わってしまうのだけれど、それも別に投稿できないわけじゃない。
「人に読んでもらえるクオリティじゃない。」「こんな考えを書いたら恥ずかしい。」そうやって自分の言葉にランクづけをしているだけだ。
すべて、自分が決めている
noteに書くことがあるかないか。客観的に見ることは難しい。自分の内面を言葉にしている以上、書いてみないとわからない。書く前に書くことがないと言っているなら、それは自分が決めているだけ。つまり、書きたくないと思っているのだ。
書きたくないという心のワガママ。ワガママというか、素直な感情なんだと思う。疲れたから、書きたくない。それを無視して、毎日投稿という僕が勝手に決めたエゴを貫くためにムチ打ってキーボードを叩いている。
心は素直な感情を、回りくどく表現する癖があるような。「書きたくない」とは言わずに、「書くことがない」という。「あいつ俺に似ている」とは言わずに、「あの人は嫌いだ」という。「あなたのことが好きだ」とは言わずに「もっと愛して欲しい」という。
心の表面の声に従うと、自分が迷子になるけど、もうちょっと噛み砕いて考えて見れば、心は素直で、自分のことも人のことも大好きだと思う。こんなことをつらつらと書ける余裕があること、そしてこれを読んでくださる人がいることに感謝。
なおき