神隠し

私は部屋で、ぼうっと窓の外を眺めながらインスタントコーヒーを飲んでいた。よく晴れている昼下がりである。

しかし、ここは私の部屋ではない。


私は、大学に入学してから、写真部へ入部した。永尾とは、そこで出会ったのである。彼はとにかく幸の薄そうな顔立ちで影も薄く、それに加えて自分から喋ろうとはしなかったし、話しかけられても小さく返事をするのみであった。
部員たちは、(少なくとも表面では)意地の悪い人はいなかったから、彼の陰口をたたいたり、あからさまに除け者にしたりするようなことはしなかったが、誰もが彼に無関心であった。


ある時食堂で彼と出会った。私は、「永尾、隣良い?」と、言いながら返事も待たずに半ば強引に隣に座った。
彼は一番安いうどんを食べていた。私はラーメンを啜りながらいくつかの質問をする。
「永尾ってさ、どこに住んでるの」
彼はこちらを一瞥もせずに、
「……〇〇町」
とだけ小さく答える。
「へえ、僕は××町だから、……あんま近くないか」
周りは腹を空かせた学生でごった返していて騒がしい。
「普段休みの日とかは何してるの。ゲームとかする?」
「……別に」
「バイトとか始めた?僕は最近スーパーで働き始めたよ」
「……特に」
彼の返答の仕方には初めこそ少し苛ついたものの、私は徐々に何を聞かれても殆ど答えない彼の謎めいた私生活に興味を持ち出した。

結局、彼は〇〇町に住んでいる、ということしか分からなかった。


彼のことが気になって、見かけたときに後をついていったことがある。
悪いことをしているとは思わなかった。
彼はコンクリートの無機質なアパートの202号室に入っていった。
そこから1~2時間ほど見ていたが、出てくることは無かった。


大学生活が2年目に入り、日差しも強くなってきた7月初旬、彼は突然部活に顔を出さなくなった。
彼はこれでも一応、部活動にはほぼ毎回顔を出していたのである。そして特に喋らず帰っていくのであった。

彼が来なくなって一か月、いつものように週末のミーティングに行ったが、ずっと皆は彼のことなど端から存在しないかのように、彼のことを話題に出す者は無かった。
私は宮地に声を掛けた。
「ねえ、最近永尾来ないけど、どうかしたのかな」
宮地は、そう言われて初めて彼がいないことに気が付いたような感じで、
「ああ……そういえば。知らないけど、何か事情があるんじゃないか」
あくまでも他人事のように無関心な宮地の様子に少しむっとはしたが、かといってこれ以上話題を広げようがなかったので、そうだよね、と言って終えた。


私は、彼にメッセージを入れた。最近来ないけどどうかしたのか、と。
しかし、一週間経っても彼から返信が来ることは無かった。


私は、彼の家に押し掛けることにした。
何故家を知っているのかと問われた際にどう答えるかを考えながら、私は彼の部屋の前に立ち、躊躇なくチャイムを押した。
向こうで微かに鳴っている音がしたが、彼が出てくることは無かった。私は何度かチャイムを押し、ドアも叩いたが、しんとしている。
ふと、なんとなくドアノブを回してみた。
すると、何故だか、ドアノブは易々と回り、ドアが開いた。
部屋の中に声を掛けてみる。しかし、部屋の中は静まり返っている。
私は部屋の中に入ってみた。もしかしたら倒れているのかもしれないし、と自分を正当化した。
初めて見る彼の部屋は、驚くほどに何もなかった。最低限の机、椅子、ベッド、本棚。それだけである。本棚にも、教科書やノート類が置いてあるだけで、漫画や小説の類は何もない。ゲームもテレビもなければ、それどころか置物一つも置いていない。風呂やトイレも覗いてみる。無論、彼はいない。
鍵をかけずにどこかへ行ったのか。彼はそんなことをしそうな人間には見えない。
机の上に置いてある一冊のノートに目が行った。無地の、どこにでもあるようなノート。私はふとそれを手に取り、中を見てみた。
ノートには何も書かれていなかった。
しかし、ぺらぺらとページを捲り、最後のページに差し掛かった時、何かが目に入った。

「消えたい」

そう小さく一言だけ書かれていた。
私は愕然とし、そして嫌な予感がした。

しかし、その「嫌な予感」は当たっていないだろう。
なぜなら、扇風機は付けっぱなしで、ベランダには洗濯物が干しっぱなしであるからだ。この状態で姿をくらますことは無いだろう。
私は、ノートを元の通りに戻して、そそくさと部屋を出た。


そこからしばらく彼の部屋を見張っていた。
彼は帰ってこなかった。


そして現在に至る。
彼は一向に帰ってこなかった。
私はそれから何度も彼の家に入っては、まるで私の家かのように振る舞った。時折寝ることもあった。

家主を突然無くした部屋の中は、陽がこんなにも射して風がカーテンを揺らしているのにもかかわらず、暗いトンネル内より酷く空虚であった。
だから私は、家の本来の役割を全うしているだけである。私が来なければ、この部屋はこれからも開きっぱなしで、扇風機も付けっぱなしで、洗濯物も時折雨風にさらされっぱなしなのである。


私は、ノートの「消えたい」の文字を消してやった。
そうして、「そろそろ戻れ。いつまでも家の守りはしてやらん」そう呟いて、私は部屋を出た。

真夏とはいえ少し涼しい深夜の道を歩く。
一体彼はどこへ消えたのか。そして、何故誰も探している様子がないのか。
依然として謎である。
彼は言い知れぬ孤独感から消えたいと感じるようになったのか。

しかし、よく考えてみれば、「何故誰も探している様子がないのか」と思いながら、私も彼のことを探してはいなかったことに気が付いた。
ただ、もう今更どこを探せばいいものか分かるわけでもない。そう考えながら、自宅へと帰ると、シャワーを浴びさっさとベッドに入った。
私には彼が抱えていたものが分からない。彼がどんな寂しさを抱えていたのか。分かりようがない。変われるものなら変わってやりたいとすら思った。
眠りにつく瞬間に、何やら青白い閃光を見た気がしたが、あれは何だったんだろう。




目が覚めて携帯電話の画面をつけると、午前8時であった。
永尾は、ゆっくり起き上がりながら、何か違和感を覚え、もう一度携帯電話の画面をつけた。
「8月31日」になっていた。
どういうことだろう。 
今は7月の初めではなかったか。カレンダーを見るとやはり7月のままになっていた。
頭がもやもやしたまま、取り敢えずベッドから降りる。

一件のメッセージが入っている。
「最近来ないけど、どうしたんだ?」
誰からだろうか。送り主は「Unknown」になっていて分からない。


部活のミーティングに行く。ミーティングが行われる小さな教室に入ると、部員たちが振り向く。
「あれ、永尾じゃん。長いこと顔出さないからどうしたのかと思ってたよ」
そう言われて、ますます分からなくなった。寝て、起きたら一か月半ほど経っていたんです。なんてそんなことがあるわけないのに。
彼は苦笑いして席に着く。
「これで全員来たね。じゃあ始めよっか」
部長が言う。

……これで全員だっけか。
もう一人、誰かいなかったっけ。僕なんかに話しかけてくる物好きのような人が。
しかし、その姿は全く思い出せなかったし、第一「これで全員」と言ったではないか。
一連の不思議な心地については、取り敢えず考えないでおこうと彼は思った。

そして、もう一つ、彼の中で何かが無くなっているような心地もした。
それは、かねてから誰も自分を必要としていないのではないか、自分がいなくなっても誰も気が付かないのではないか、という思想に捕らわれ、そうして、それならばいっそのことこの世から「消えてしまいたい」、という暗澹たる思考であった。



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