悪夢と現実と、(前)
男が、ゆっくりと近付いてくる。
私は、跳ね上がる心臓を抑えつけながら、ゆっくりと後ずさる。
そうすると、曲がり角に差し掛かって、私は咄嗟に右に曲がった。そして、曲がった瞬間に勢いよく走り出す。後ろは見ず、ひたすらに走った。
そうして、どこまで来たのか分からなくなった頃、私は走り疲れて立ち止まった。
後ろを見た。流石にいなかった。
はぁ、と溜息を吐いて、ふと前を向いた時。
私は、これほどまでに驚き、絶望したことはない。
男が、目の前にいた。
恐怖から、動くことが出来なかった。
びくともしなかった顔が、突如として大きく動き出す。
ケタケタケタと不気味な笑い声を発すると、ゆっくりと、
ナイフを突き付けた。
──────────
目が覚めた。
いつもの部屋。
…どうやら、夢だったようだ。
私は、大きく深呼吸をし、とにかく落ち着こうとした。
時計を見ると、まだ午前5時。起きるにはまだ早いが、二度寝をすると寝坊してしまいそうだ。
私は仕方なく起き、温かい飲み物を入れて先程の怖い夢を忘れようと努力した。
──────────
それから3日後。
怖い夢を見たことは覚えているが、夢の内容までは大方忘れてしまった。
仕事が終わり、会社を出ようとすると、外は大雨が降っていた。
「ええ……困ったな……」
朝昼は全く降っていなかった、寧ろ、雲が多かったとはいえ晴れ間もあったくらいだ。
急に降り出したらしい。
そういうことで、私は傘を持っていなかった。
近くにコンビニはあるものの、横断歩道を渡った先であり、これではコンビニに着くまでにびしょ濡れになって意味が無い。
「仕方ないな…止むまで待つか…」
そう思って後ろを振り向いた瞬間、私は思わずきゃっ、と声を出した。
男が立っていた。位置的に、私の真後ろに立っていたらしい。
「あ…すいません」
と避けようとする私の腕を、男がいきなりガシッと掴んだ。
「えっ…!な、何ですか……」
男は、ゆっくりとこちらを見る。目と首以外一切動かない。ロボットのようだった。
「…傘、無いんですよね。」
男は、ぼそっと低い声で言った。
「…お貸ししますよ。」
と、手に持っていたビニール傘を差し出す。
「…あ、大丈夫ですよ。お気遣いありがとうございます。」
私は愛想笑いをして答える。
「…私は、折りたたみ傘も所持しています。折りたたみ傘を鞄に入れていることを忘れ、ビニール傘を間違えて持ってきたのです。だから、丁度お貸しできると思って。…嫌なら構いませんが。」
男の口調は抑揚がなく、それでいて有無を言わせない静かな圧力を感じた。
そして、同時に少し違和感を感じた。
「…いえ、そういう訳では……では、お言葉に甘えて…ありがとうございます、助かりました。」
「返す必要はありません。要らなくなったら処分して下さい。」
男は、傘を渡すと、折りたたみ傘を取り出し、さっさとどこかに行ってしまった。
家に着いた。
さっさと着替え、メイクを落としてベッドに倒れ込む。
家に着くまでには、違和感の招待は粗方分かっていた。
「あの人………この間の、夢に出てきた人だ……」
少々もっさりした黒髪。黒縁メガネ。ひょろっとした長身。全く動かない表情。掠れた低い声。
紛れもなく、夢に出てきた男だった。
「でも、何故……?」
いくら記憶を巡らせても、私はあの男と会った記憶がない。
無論、覚えていないだけかもしれない。
だとしたら、何故突然夢に出てきたのか。
「止めよ…。」
考えても答えは出ない。私はこのことについて考えることを止めた。
──────────
それから2週間後。
夢のことも、あの男のことも、殆ど忘れていた。
午前0時、私は眠りについた。
──────────
大雨が降っている。
私は、どこかの地面に倒れている。
動こうにも、全身が痛くて動けない。
はっきりしない意識の中、必死に周りを見渡す。周りには何も無い。ただ、アスファルトが広がっているのみだった。
その時、誰かが私の顔を覗いた。
例の男だった。
声を出そうとするが、力が入らない。
男は、私の顔をじっと見たまま、私の首筋にそっと触れる。
「……運命に、抗うことはできないんですよ…。」
──────────
「まただ………。」
また夢だ。何でまたあの人が。
──────────
私は、どうしても気になった。
あの男のことが。
きっと何かがあるはずだ。
うちの会社の入り口で出会ったのだから、会社に関係する人間だろうと思い、手当り次第探った。
しかし、何も収穫は無かった。
誰も男のことを知らないと言う。
名前くらい聞いておけば良かったと後悔する。
─────────
男と再会したのは、意外にも早かった。
約10日後のことである。
午後8時。会社から家までの間には歩道橋があり、私はいつも歩道橋を使う。
そこでのことだった。
階段を上り、橋を渡っている真ん中辺り、何故か男が立っていた。
「お久しぶりです。」
「…何故ここにいるんですか?」
「貴方を見かけたもので。」
「はあ……」
「勘違いしないでくださいよ。私はこの辺に住んでいるんです。貴方をストーカーしている訳ではない。」
「もしかして、同じ会社ですか?部署は?」
「同じ会社ではありません。ただ、貴方の会社に用があって、最近偶に出入りしているだけです。用事の内容は機密事項なので言えませんが。まあ、もうすぐ終わりますから、そしたら貴方と会うことはないでしょう。…といっても、貴方もこの道を使っているなら、出くわすことはあるかもしれませんが。」
あくまで淡々と述べる。
「では。」
男は私の隣を通り過ぎようとする。
「…あの!」
私は呼び止めた。男が振り返る
「…あの、私達、以前どこかでお会いしたことがありましたか…?えっと、傘をお貸しして頂いた、それより前です。」
男は、私の顔をじっと見ると、ニヤリと気持ちの悪い笑みを浮かべた。
「さぁ……どうでしょうねぇ……?」
──────────(続)
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