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だって、日常にタイトルなんてないじゃない



毎日のようにコーヒーを淹れる。
真っ黒の深煎り豆がしかるべき工程をひとつひとつ通り過ぎながらコーヒーという飲み物になるまでを見守る。その間にはいい音があり、いい匂いがあり、いい時間が流れる。工程は手が覚えているので、頭はそこまで使わない。ただおいしいコーヒーが飲みたくて生まれた習慣だけど、今ではそれ以上の何かであり、自分の中の小さな儀式のような、しかし日常に溶け込んだ、大袈裟ではない行為だ。1日の始めや、気分を切り替えたいとき、リラックスしたいときなどいろんなムードやシーンにその小さな儀式は寄り添ってくれる。


私はYouTubeに動画を投稿するという活動をしている。
どういった類の動画かを説明することが難しくていつも困るのだけど、「自分の日常を切り取ったもの」と言うのが1番完結であり、近いのではないかなと思っている。(それでも100%胸を張ってそう言い切ってしまえない自分もいる。)

そんな動画の中でコーヒーを淹れるという行為や、コーヒーと共に過ごす時間も多くキャプチャーしている。いわゆる”丁寧な暮らし”を表現したいとか、そういったことではない。ただただ自分の好きな時間であり、ものであり、行為であるから、頻繁にカメラを回して動画に入れ込む。


しかしどれだけ努めても、私の本当の楽しみや感覚を画面の向こう側にいる人に同じように感じてもらうことはできない。私が感じていることはそっくりそのまま私の世界の外側に持ち出すことは、どうしてもできない。それは私の感覚が特別だから、とか、映像の可能性には限りがある、みたいな話ではもちろんない。どれだけSNSで簡単に”シェア”できるようになったとしても、誰の感覚や感情であってもそれはその人のものでしかない。シェアできるのはその断片。SNSに限ったことではなく、話しかける相手に100%を手渡すことはできない。だから誰かと関わることはおもしろい。自分の世界を持つということはそういうことで、誰だってその世界を持っている。その世界をどこまで大切にするかはその人自身に委ねられる。

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