「ジャッジしない」ってむずかしい
私が人生で1番最初に「こんな風になりたい!」と誰かに憧れたのは小学校中学年くらいのときだったかな。
その憧れの人は何かにつけてジャッジして、ものすごい勢いでものごとに”ラベル”を貼っていく人だった。私は近くでそんな姿を見てて、かっこいいと思ってた。いろんなものごとをなんでもわかる人のように見えたからだ。私もそうやっていろんなものごとをわかる人間になりたいという思いを幼心に抱いてた。だから私もいっぱいジャッジして、ちょっと賢い風を装ってはいい気になっていた。誰かの受け売りとか、批判的な言葉とかでなんでもかんでもに”ラベル”を貼る子だった。今となってはなんてイヤな子なの!
でも、もっともっと生き続けてくる中で、それがいかに不必要なことかがわかるようになってきた。なんでもわかる感じを装ってたイヤな感じにも気づいた。そして当時の憧れの人のそれも同じようなものだったな、とも今ならわかる。私も彼女も自分の考えをあたかも「世界の標準ですよ」と言わんばかりの顔して話してた。今となってはその憧れの人自身もまた世間でジャッジされる対象によくなっていた人だったんだろうなと想像する。弱い立場に回る機会も多かったのだろう。それでも自分で強く立っているための精神的なガードとして、自分がされるのと同様にいろんなものやことや人を、身近である私の前だけではたくさん批判したり、いちいち判断したりしてたんじゃないかな。あくまで想像だけど。
そういったことに徐々に気づいていく中で、今度は誰かや何かに対して良し悪しの判断を下すことにすごく消極的になった気がする。何年か前にヨガのクラスで「良い・悪い、好き・嫌いの判断なくとも、世界は問題なく回り続けるから、判断に急ぐことはない」的なことを教わって、それが腹にズドンと落ちた経験もその消極化に加速をかけた。それはいい変化でもあった。だけどいざ自分の意見を伝えるとなるとどうしても言い切れないし、すっごく回りくどく、いろんな立場の人に対する未熟なフォローを加えようとしどろもどろになりながら伝えてる。それって一見優しさのようにも感じられるかもしれない。だけど実際はジャッジすること、されることに抵抗している私のエゴでしかない。
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この間久しぶりにインスタのフィードに投稿をした。
いつもストーリーばっかり使っているのは、24時間で消えるというその仕組みを考えた人をハグしたいくらい、ストーリーが気に入ってるから。1日経てばもう残らない心地よさに慣れてしまって、フィード投稿は超ご無沙汰となっていた。
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出窓の傍から
映像や写真にうつらない感覚や感情を、等身大で言葉にしています。 誰かの人生を劇的に変える記事はきっと含まれません。誰かの言葉になりきらない…
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