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呼吸の広がりとともに

最近、意識して自分の体との対話をしています。思考ではなく、体の感覚から寄り添っていくようなアプローチ。

目をつぶり、心臓の音や収縮・拡張する胸の動き、今ある自分の状態を丁寧に眺めていきます。足先から頭のてっぺんまで出来ればよいですが、ルーティンではありません。自分のいまを感じられればそれでいいです。

瞑想というと、思考を無にするのが目的なイメージがしてしまいますが(私もそう思っていた)やってみるとわかるのは、思考は止まらないんだね、ということでした。なので思考に逆らわずに流れるままにさせておくほど、いいカンジです。

空っぽにする、のではなく、あるがままにさせておくことで、空っぽさが自ずと湧き上がる、というのでしょうか。この空っぽさにくつろいでるひとときが心地よいです。

実はこのnoteを書く直前にも、少し自分の感覚に寄り添っていました。あぁ、そうそうこの感じっていう具合に。旅行先から帰ってきて、最寄り駅沿線の電車に乗るとホッとする感じ、といったら想像していただけますか?おかえり、ただいま、を体を介して自身が自身にいっています。文章にするとなんだか可笑しいですけど、こういう時間を持つこと、持てることが幸せなんです。

でも、これは意識的でいないとすぐに忘れてしまう感覚でもあります。やることがある、やらなきゃいけないことがある、と時間に追われる日々を送っているときほど、自分寄り添いタイムは必要なのに。そんなことやってましたっけ?レベルまで忘れ去られていることもあるんですよ。

意識、意識、意識。

今、書いていること。浮かんでくる思いのこと。次の思いが浮かび上がってきていること。その度にカタカタとキーボードを叩く音がして、その音に気づいているということ。ほら、また違う思いが湧き出てきてることに気づいてること。

今、今、今。

私たちは今しか生きられない。今にしか存在し得ない。その今ですら、どんどん過ぎていく。だから、今という言葉すら概念に過ぎない。

昔言われてムカッとした言葉も過去に傷ついた思いも、ぜーんぶナイ。

この先どうなっちゃうんだろう?と心配する未来すら、ぜーんぶナイ。

ナイのは頭でわかってる。それでも、どうにもならないほど不安になったり、心が乱れることがあるときは。呼吸に意識を向けてみる。

心臓が鼓動する音。その度に上下する胸。今、確実にあるモノに目を向けていく。今、確実に感じられるものに寄り添えるほど、今にちゃんと生きてる自分が感じられる。

真実はココにある。

いつも、ココにある。

今日もありがとう、わたし。

ありがとう、みなさん。


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