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大いなる生命の流れに委ねると

現在させていただいているセラピストのお仕事(ボディワーク系)はパートとの掛け持ち期間も含めると今年で8年目です。何にも向いてない、何も続けられない、と思っていたわたしにとっては快挙なのです。

自分の提供できるサービスでどなたかに喜んでもらえるって幸せです。嬉しさ、ありがたさを噛みしめながら、それに見合う技術と人柄を磨きたい、ただそれだけで今があります。

人間っていろんな意味ですごいな、と思うのは“現状で飽きたらなくなってくる”ところです。それが経営面に現れることもあれば、精神面で現れてくるもあるようです。わたしは後者でした。

セラピストとしての在り方を追求するうちに、セラピストとはこういうもの、がいつのまにか出来上がってしまっていたようです。そしてそこからはみ出ることを良しとしない自分にうっすら気づくようになったのです。

活動範囲を広げたいけど、何してる何を伝えたい人なのか、わかりにくくなっちゃうかな。新しいことを始めたら既存のクライアントさんが不信がるかしら?とか。原因を外に求めては、わたしがわたしに一歩先へ進ませないように仕向けるのです。

このまま同じところにいれば安心だと思い込んでいるのでしょうが、その安心ですらいつまで続くかなんて誰もわからない。新しいことに一歩踏み出したことで何かが動き出すかもしれないのに。

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わたしがクライアントさんとの関係性で1番大切にしているのは“信頼”です。人さまから体を委ねていただくことは、ある種自分を晒すことでもあるのです。身体的な痛みや精神的な苦しみもともに分かち合い、理解しあえるひとときをご一緒することがセラピストの仕事だと考えてます。

ですが信頼関係を1番に築く相手は“自分自身”なのだということに、ここ1〜2年で気づけるようになりました。きっかけは“不安”との向き合い方、付き合い方が変わったことです。不安を言い換えるなら、“この先何が起こるかわからない”という恐れでもあります。

でも、この先の未来も、これまでの過去も。本当にあったものなのでしょうか?単なる記憶に過ぎず、それもわたしの思考を通してのみ出来上がった出来事であり経験に過ぎないのだとしたら。そっくりそのまま信じて生きていくより、そんなの幻想に過ぎないよね?と思える方がずっとラクです。

思考とは何か?それを生み出す自我の性質とは?そもそもわたしって何?

今にしか存在し得ない”生命としての息吹“をわたしの中にしっかり感じる。このことがわたしに“大丈夫”感を育んでくれました。

自然に目を向ければ...枯れ木のように見えていた枝も春になれば芽吹いてきますし、芽を出した草木は当たり前のように明るい太陽を目指して花を咲かせようとする。植物からしたら”したい・したくない”すらなく、ただただそのように在るだけです。

与えられた場所はさまざまな縁や導き、関係性の中で生まれていきますが、そんな当たり前じゃない環境のなかで当たり前のように“生命としての力”が発揮されている日常において。”わたし“という生命だって大きな生命の流れのひとつとして存在しているのです。

大きなモノに抱かれているわたしたちは、いつも”それ“とともにある。言葉にするなら”安心“ともいえるかもしれませんし、他に適した言葉を見つけられる方もいらっしゃるかもしれませんね。

”わたしが大丈夫“ならば、”あなたも大丈夫“。

与えられた”生命“としての現れをそれぞれがそれぞれの持ち場や持っている力で活かしていけばいいのです。

より深く自分を知ることを通してセラピスト業に限界を設けず、広がりをもって活動につなげていく。

現在は自粛を余儀なくされ、個人のできることは限られてしまうかもしれませんが、わたしの在り方の先にどなたかの在り方につながる何かが生まれることを願っています。


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nao
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