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めぐる。めぐる。めぐる。

流行はリバイバルされるというが、人生のサイクルの中でもそれはやってくるな、と感じる。

個人の肌感覚でお話しするなら、去年あたりが0地点。これは何もわたし自身に限った話ではなく、「あなた自身」にも当てはまるコトかもしれないですね。

今まで築き上げてきた「マイスイートホーム」をぶっ壊し、さら地にするような2020年。

わりと住み良かったし立地もインテリアも気に入っていたけれど。時代も変わるし環境も変わる。そして何より、心もそれらにともなって大きく大きく変化していく。

わたしの生きるベースは心地よい巣(スペース)作り。でも、そろそろある種の心地よさも飽和状態に達していたのかも知れず。土台を壊してみるのもいいかも知れない、そんな気分にもなった。ただ一方で、どうした、わたし?の戸惑いも少し。

気持ちに魔がさすこともあるし、安定に飽きが来ることだって当然ある。でも、それが自然な流れなのだとしたら。甘んじて受け入れてみたらいい。

それでも、目の前に置かれたグラスの水をごくりと気持ちよく飲み込むことができないのも事実だった。

でも、流れる川は止められないし、止まらない。流れることがあるがままの自然な姿だから。

たぶん自然の流れに抗おうとするから人は苦しくなるのだ。そう感じてるなら、そう感じてる自分に「そうなんだね」と声がけしてあげるといい。決断するしないはいったん、脇においといて。

そんなわけで。チカラ自慢たちの綱引きがかなりいい勝負。勝者がどちらにも決まらないまま、ずーっと試合しっぱなしな状態がしばらく繰り広げられていたわけだが。

どっちをとったら正解でいられるんだろう?どっちを選べばよりダメージが少なくいられる?つまりは、「正しさ」を基準に決断するほどに本音から遠ざかることを知った。

そして「勝ち」を意識するほど、人は「守り」に入ってしまうことも。

どっちを選んでも、それなりの出来事が起きてくし、それなりの反応、それなりの思いが湧き上がる。

瞬間ごとの1コマを、「わたしフィルター」で切り取って「いい・わるい」のジャッジを下すことの、なんと短絡的でつまらん生き方だろう。

自分なりの心の中をかなーり深いところまで潜水してみたりもして(byセラピーとか)。すっごい昔に押し入れの片隅に仕舞い込んだままのモノ(思い出せば親しみあるけどとうに忘れ去ってた思い込みとか)など、たいそうなお宝たちを掘り当てたりもした。

積極的に見たくなかったものが白日の元に晒されていくのに、キモチはどんどんラクになっていくこの感覚(これまでもずいぶんと身軽になっていたのだけど)。ラクに息が吸えるって、ちゃんと海面の表層に顔を出してもっと世界は広いことを空を眺めて思うようなことなのだ。

見えないように奥底に沈めてたものにもちゃんと理由があってそこにいたことをわかることや、その理由を見つけてあげられたことも誇らしい。

わたしは幽霊はみたことないけど、この世を彷徨う霊たちは、ただ行き場を知らないだけだったり、自分が死んでしまってることに気づいてないだけというのはとても理解できる。

人の潜在意識の一片にあるネガな思い込みや刷り込みも。成仏できない霊みたいに、忌み嫌われて端っこに追いやられ、見えないところに一旦置かれているだけ。存在自体にいいわるいは決してないのだ。

・そこに
・そんなものが
・そういうストーリーのもとに

佇んでいるしかなかったんだね、を理解してあげること。

隠れていなきゃ、隠しておかなきゃ、という思いたちは、もはや隠れる理由すらも空に放たれて自由に羽ばたいて(幽霊でいえば成仏)いくのかも。

そんなこんなのプロセスを繰り返し、私たちは生きている。ある意味合いでは、どこかにたどり着いたと思っていても、違う側面からは単なるスタート地点に過ぎないともいえ。

どこにいるか、よりも。どうあるか。

ゴールもスタートもなく。
わたしたちは巡る。
生命のカタチを変えながら。
環境、在り方を自在に変化しながら。

変化を恐れるなかれ。

変化こそ、生きるチカラ。
生き抜くチカラだから。

壊す、を楽しもう。
作る、を楽しもう。

去年散った桜は、今年もキレイだ。


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