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書くことで問題を解決しようとしてたら“問題“ですらなくなってしまった話

日々いろんな思いが生まれては消え、したいと思いつつもその中で行動に移せたものってなんだったかな?そんなことを思い出しつつ書くことを通じて気持ちの整理をするのが日課です。

書くことで救われることもある

noteの他にモーニングページをしてます。
モーニングノート、ジャーナリング、などと呼ばれることもありますね。
簡単に言えば流れてくる思考のままにノートに書き連ねるという作業です。

とにかく、書きまくるんですよ。自分の心情を書いてもいいし季節の移ろいを感じたままに表現してもいい。書くことがなければ、今日は何も書くことがないです、でもOK。目安は3ページと聞きますがノートの大きさや文字の大きさによると思うので厳密に考えなくてもいいと思います。

わたしの場合、自分の気持ちを詳らかにしたくてはじめました。当時、心理セラピストになるための講座を学んでいて講師からしつこく(笑)自分の思考に気付くことこ大切さを教えていただいたことも関係しています。

書いてるうちにだんだん気付いてくるのは、結構私って思い込みが激しいヤツだったんだなーということ。同時期に課題でもあった自分がセッションを受けるということもしていたので、玉ねぎの皮が1枚1枚剥がされていくような感覚があり。あれもでっち上げ、これも思い込み…剥いても剥いてもまだあるよー!という終わりのない自分との対峙がある種、瞑想的でもありました。

書く、ことで何かを見つけたい。出口への扉の鍵が見つかるかもしれない。そんな思いで続けていたけれど、答えを見つけようとすること自体がそもそもナンセンスでした。自分を見つめることは死ぬまで続くことですし、思いも環境も常に変化して、これだ!と掴んだ先からスルスルと手から零れ落ちて行くのですもの。

先の見えない不安に苛まれることもありますよね、生きていれば。でも、よーく考えてみるとそもそも一瞬先のことだって本当はわからないものですよね。わからなくて当たり前。
それをどうしてわかろうとするの?
そうまでしてわかりたいと思うのはなぜ?
そう感じてしまう私の中には何があるんだろう?
少し自分と自分との悩み(思考)との間に距離ができてからでしょうか。少しずつですが感じ方や物事の捉え方が変わっていきました。

人生をコントロールしたい気持ちから離れる

わからないことへの恐怖と向き合う。
自分の弱さを認識し、受け入れる。
とにかく書いて書いて書いていくうちに…
謎は謎のままでいい、わからないことはわからないままでいいじゃない、とふと思えるようになった時がありました。
不安の数値は低いほどいいっていう思い込みも、おそらく皆さんが思っていることだとも思います。でも、不安に感じることで自分を守りたい思いがあり、それをすることで平常モードを保てる時だってあるのです。
ちゃんと理由があって出ていることを、ネガティブはダメ!いらない!と拒絶してしまったら体や心の機能そのものを否定することにもつながりかねません。

自分の今に気付いていくこと。
自分の今を正しく受け入れていくこと。


これらは私が書くことを通じて、そして自分と向き合いながら出会えた大切な習慣です。

闘うこと。挑むこと。克服すること。これらは人生において必要なことでもあるし大切なことでもあります。ですが、これをすることは自分の目の前に敵がいることが前提の毎日がやってきてしまいます。敵を敵と設定すること自体に問題があり、そもそも敵がいることを問題視する思考が問題を生むのです。
ここに気付けるようになってから、どんなに不都合なことが起きたとしてもそれを退けようともしなければ、頑張って解決しようともしないでいようとする姿勢が生まれました。
ファイティングポーズを取らなくても勝てること、いや、勝ち負けから離れたところにあえて立つことで闘わずして問題を解決する見方を手に入れたという方が近いです。
ここに立っていると自分の心の深いところにある何かが静かで穏やかでいられるのをいつでも感じられました。

感情はコントロールするものではないかもしれない

アンガーマネジメントって一時期流行りました。自分の怒りをコントロールする術は持っておくべきだと思います。が、感情は感じるままに五感を通じて出てきてしまうもの。抑えるのは無理です。

抑えるというよりも、出てきたものを正しく受け入れることがいわゆるコントロールにつながるのかなと今となっては感じます。

そういえば禅で、美しい月が器の中に映っている。その器の中の水がさざ波ひとつない静かな状態でないと月が歪んで映ってしまうよ、という話があります。
どんなに美しいものでも自分の受け取り方次第ではおかしな風に解釈してしまうこともあるというわかりやすい例え話ですね。
そういう意味でも感情をコントロールというのも五感をコントロールではなく受け取り方を変えなさいよという意味で仰っているとすれば納得です。

だから、書くを通して知る/出会う

わかっているようでわからない。知っているようで全然知らない。そんなことが起きてしまうからこそ、私たちは迷い、悩み、戸惑います。
そんなときは、書くことで心を落ち着かせることができます。だからわたしは続けているのです。書くということを。
書くという行為はある種、自分の思考のままに書いているようで無意識下へと誘われるような不思議なチカラもあるので、書いてみてからホントの気持ちに気づくこともあるんですよね。
面白いのは自分のハッキリした気持ちを知ったり表明をしたりすると、さらに前に進んでいけるような情報に出会えるのです。こちらが腕を開けば、自ずと必要なものが舞い降りてくるのです。それは自分が考えていたようなカタチではないにせよ、何かしらの未来につながるモノとして現れるので、そうきますかーと思うことも多々です。
それこそが未知なるものと出会う面白さや意外性であって、ちっぽけな自分が想像するに足るものをとうに超えてきます。
どんなことが起きても次にはどう転ぶか分からない。自分の価値基準で判断することがどれだけ狭くて独りよがりなものか。自分の思い通りにならないことはむしろ良いことのほうが多いのかもしれません。

自分が本当だと信じていたものがどれだけの嘘やレッテルでペタペタと貼りめぐらされていたかを知ると、本来なら抱える必要もなかった重荷がスルスルと落ちていって身軽になります。いやゆる心軽やかという状態です。

体のケアと同時に、心のケアはセラピストに頼らずとも自分でできる部分もあるなと自らの体験を通しても感じます。

書くって癒しです。喜びです。
そして自分という存在の枠を超えて、外へ外へと開いていくような作業です。

時間はかかるけどお金はさほどかかりません。スキマ時間をぬってできます。個人的にはとてもいいと思っている分、ちょっと悩みを抱えて身動き取れなくて…みたいな友人にはモーニングページをオススメしたりもしてます。ですが、割とみんな同意してくれるものの実際にやってくれる人にはなかなか出会えません。

セルフケアというと体へ働きかけるケアを思いがちですが、心に働きかけるセルフケアもありだと思ってます。そして書くことが何よりも癒しのプロセスを多分に含んでいることを私も経験済み。「書く癒し」は自分が誰かにするというよりも、自分が自分に対してしてあげられることです。
自分に優しくしたい。自分を肯定的に見られない人ほどやってみてほしいです。
サロンでもセッションだけではない自分でできるセルフヒーリングとして推していきたいところです。





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