relay japan はじめます。

今日は2023年1月7日。干支が、トラからウサギにバトンタッチして、もう1週間も経過した。

2022年に3回目の年男を迎えて過ぎ去ったいま、僕はわずかばかりの淋しさを感じている。とともに壮年期の中盤に入りつつある現実に、多少なりの焦りも・・・。

そんな焦りを吹き飛ばすためにだろうか、、少し前から「こんなことしたいなーー」ぐらいの軽い気持ちで、ひとつのアイデアを練っていた。

一言でそのアイデアを表すと、”人の手で行われている営み”を文章に綴る、そしてその手を操る人を写真に収めていく、アマチュアとしての”実験的”記者活動だ。

ん?なんだそれ?そう思う人は多いかもしれない。
僕自身このアイデアについては、まだちょっと抽象的だな・・と感じている。
友達のユーキにアイデアのことを話した時、「…つまり職人さんの手仕事を紹介したいってこと?」と言われた。

ユーキの質問はもっともだ。Google検索で ー 手仕事 ー と検索してみたところ、下のようなWeb辞典がヒットした。

て‐しごと【手仕事】
〘名〙 手先でする仕事。機械によらないで、手で工作する仕事。手わざ。手工。〔匠明(1608‐10)〕
精選版 日本国語大辞典
て‐しごと【手仕事】 の解説
手先を使ってする仕事・作業。
[類語]肉体労働・重労働・力仕事・荒仕事・作業
デジタル大辞泉(小学館)

なるほど手仕事とは、まさに手が主役の仕事のことであるようだ。時に機械を使うこともあるが、「手」そのものが出来に強く影響を与える仕事を指すらしい。

一般的な「手仕事」に対する解釈、僕もその通りだと思う。

でも、僕の実験的な記者活動で紹介したい”人の営み・仕事”は、上の定義の範疇をあえて超えたいとも思っている。

なぜなら、どんな仕事であっても、(手が主役ではないかもしれないが)「人間そのもの」の営みであると感じているからだ。

これは一般的な定義・認知からずれているかもしれない。

「手」(肉体労働や手仕事)と「心」(ケア労働)が、「頭」(認知能力を生かした仕事)にこの数十年間奪われてきた名声と恩恵を取り戻す方法はある。』

上の紹介文が付されたデイヴィッド・グットハートの良書「頭 手 心」では仕事を「手」(肉体労働)「心」(マインドケア)「頭」(認知能力)という三つの区分で分けて、話が展開されている。
この本の中の一つの論点は、「頭」の仕事が過剰に評価されてきた今までの時流が、今後大きく変化するのではないか、という点だ。

「頭」を使った人たちの仕事の内容は、僕なりにわかりやすく言い換えれば、”脳みそ”をフル回転して、数字や分析・統計に向き合い、モノの良しあしを考え、設計し、サービスを展開する仕事、ということだろう。

情報社会や、工業化社会とそれに続く脱・工業化社会が、20世紀の終盤から今世紀にかけて大きく発展したことが象徴するように、この数十年の間に「頭」を使った仕事が多く生まれた。

そして、社会は「頭」の仕事を時に過剰なまでに評価し、「手」と「心」の仕事は(少しづつ?それとも元からだろうか・・)ないがしろにされてきた。

「頭」の仕事が評価されるため、多くの人が”スマートな仕事”をしようと願っている。

社会全体に、効率化・最適化・クリーン化が要求されてしまっているせいで、どこかにひずみが出ても、「見えない」「上がりにくい」「なかったことにされる」、そんなことにはなっていないだろうか。

やっぱり、「頭」を使った仕事はいわゆる(非効率と思われる)「手仕事」の双極にあるものかもしれない・・。

でも、ちょっとだけ考えてみたい。
「頭」の仕事が過剰に評価されてきたのは事実として、今の時代は我々の親・祖父母・そのまた上の世代の時代よりも、多少なりとも”生きやすい安全な社会”ではないだろうか。

人間が偶然的に死ぬリスクは低くなっている。その事実は、「手」「心」の仕事だけでなく「頭」が支えている仕事も、(コミュニケーションをする生き物である人間の認知能力を最大限に発揮された結果であることを思えば)人間的な営みの一部として、欠かせない分野の仕事であることを証明しているのではいないか。


「手」「心」「頭」という区分で仕事を分けず、人間としての営みの表現が十分に成されているのであれば、それは手仕事といえるのではないか。

だから僕の実験的な記者活動の中では、「頭・心・手」という区分に縛られず、人間的な営みを支える”ヒト”そのものに焦点を当てたものにしたい、と思っている。

~~~~~

そんなわけだが、なぜ”人の手”に注目するのか。一つだけ質問してみたい。

あなたは一日のうちどれほどの時間、自分の手に注意を向けているだろうか。

きょう何をどう、触って・作って・壊したただろうか。

友だち数人に軽く聞いてみたのだが、みな一同に、自分の手に対してそこまで深くは考えていないと言われてしまった。

自分の手”だからこそ”(常にそこにあるもの)、いつもはそこまで気にすることはないかもしれない。

僕の今朝を思い返してみれば、大阪に住んでいる姉から送られてきたコーヒー豆を使ってコーヒーを淹れるために、袋をハサミで開封し、ミルにかけて豆を粉砕し、ケトルでお湯を沸かし、ケメックスにフィルターと粉砕したコーヒー豆をセットし、ケトルからやかんにお湯を入れなおし、、、そしてやっとコーヒーを淹れることができた。

これがたった10分少々の一連の動作である。それだけで僕は何度、意思を持って、そして半ば無意識に手を動かしただろう。

もちろん毎時の手の動作にいちいち、集中したり思考していては、脳みそはすぐパンクしてしまう。

無意識に体を制御し動作できることは、当たり前ではない。

思考の源泉である脳みそと同時に、体もまた、人生の主役であるべきだ。

僕の思考実験もここに端を発している。

人の手による営みをリレーのように繋ぐと、それは人間としての認知と心理、生き物としての体、それぞれにどんな発見があるのか、考えてみたい。


長々と書いてしまったけどやっぱりまだ抽象的だろうか。。やっていくうちに方向性がみえてきたらいいと思っている。まずは見切り発車でスタートして、追々考えていこう。


あらかじめひとつ言い訳をしておきたい。

僕の家系は父方・母方ともに、分野は違えど職人家系だ。また僕自身が民藝運動に強く共鳴しているため、これから紹介していく人物・文章は、昔から使われる意味での「手仕事」に偏ってしまうこともあるかもしれない。

そうはならないようにと本気で思っている。
偏りが過ぎているときには、一言メッセージをくれたらありがたい。


あらためて2023年1月から実験的な記者活動「relay japan」はじめます。
よろしくお願いします。






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