見出し画像

私の(戦略的)ドライな子育てについて

息子は息をするように噓をつく。

親切な読み手の方で、親のかかわり方一つとおっしゃりたいのは少し待ってほしい。

例えば5分後にウソがばれるとわかっていても、「今」しか想像できないので、保身のための嘘をついてしまう。
5歳児の話をしているのではない。齢16歳なり。

しかも嘘に限らず数分前のことを覚えていないので、
詰められると、身に覚えがないと言って、自分を攻撃する相手として逆切れする。

他、特性マシマシ。次郎のラーメンなら野菜で向こうが見えないぐらいだ。


愛、

を何をもって定義するかにより変わってきますが、
私は子どもを愛しているとは言えない。

たぶんもっとドライだ。研究対象、という感情に近い。

咄嗟に噓をつき、母のせいだと責任転嫁を悪気なく行う子どもに対して、
「コノヤロウ…」と感情に流されたら、我が身をも滅ぼす。

私だって嘘をつく子供は嫌いだ。それは我が子であっても。

しかもそれを誰かに愚痴れば、小さいころ私がきつく叱ったのであろうと邪推されるので、もう今世で理解してもらうことはあきらめた。

私自身、完璧な育児ができていると思っていない。
だからこそ、薄氷を踏むような心持ちの中の失敗を指摘されるのは
相当にキツイ。
打ちのめされるほどではないが、世間の目は感じている。

こんな時、仕事をしていてよかったと思う。
お役に立てた時、ありがとうと言われると、純粋に嬉しい。
存在価値を認められる。評価なんて、自分以外の誰かが決めること。
評価だけを気にして生きるのは問題だけれど
社会性の生き物である「人間」が、他者を意識しないで生きれるわけがない。
評価軸は多数持っていた方が生きやすいのだ。

そうはいっても、冷めた目で子どもを見ていることに罪悪感を感じたことがある。
児相の先生にそのことを吐露すると、
「だって、息子君は気づいてないんでしょ? むしろこちゃこちゃ関わられなくて喜んでるんだから、ぜんぜんOK」
と平然と言ってのけてくださって、二人で笑ってしまった。
そう、息子は目に見えないものに興味はない。でもそれでいい。


ひとつだけ決めていることがある。
この子を社会に出すこと。

息子がゲームに没頭するのは現実を直視できないからだ。
どうしても、うまくやれない、もどかしさ。
でも私は先に死ぬ。
未来のためにできることは
一人で、合法的に、生きることができるようにする。
これが私の務めだ。

おそらく何度も転んでは立ち上がらなければならないだろう。
でも君は競馬界のトウカイテイオー、何度でも立ち上がるのだよ。
天国で君に100万ドルBetだ!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?