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『嘆きのテレーズ』(1953)を見る

 ゆえあって、古いフランス映画を見た。エミール・ゾラの『テレーズ・ラカン』(1867)を、あの『天井桟敷の人々』のマルセル・カルネが映画化したものである。とても面白かった!というわけで、何がどう面白かったのかを書いていく。

 小説の紹介からしておこう。ゾラは、アデライード・フークという女性がマッカールと愛人関係にあって二人の子どもを、ルーゴンと結婚して一人の子どもを産んだ、という設定で、その子孫たちがどんな人生を辿ったのかを「ルーゴン・マッカール叢書」として20冊の小説に描いている。『居酒屋』も『ナナ』もこのシリーズに含まれ、最終巻の『パスカル博士』では、『居酒屋』の主人公ジェルヴェーズの父アントワーヌ、さらには104歳のアデライード・フークまでもが登場している。

 しかし、この『テレーズ・ラカン』は「ルーゴン・マッカール叢書」の着想前に書かれたもので、「体質」をテーマにする、とゾラ自身が語っているものの、その体質が誰からの遺伝なのか、というようなことにはほとんど触れられない。あらすじは、叔母に引き取られた孤児のテレーズが大きくなり、一緒に育ってきた従兄のカミーユと結婚するものの、この男は虚弱で、テレーズはカミーユの幼馴染で生命力に溢れるたくましい男、ローランと密通するようになり、やがて二人はカミーユが邪魔になってボートから川に突き落として殺し、結婚するのだが、罪の意識からだんだん二人の間がうまくいかなくなっていく、というものである。途中で叔母のラカン夫人が中風のために全身付随となり、ローランとテレーズは献身的に世話をする。ある日ローランはカミーユ殺しのことをしゃべってしまい、それをラカン夫人に聞かれる。しかしラカン夫人は声を出せないのでそれを誰にも教えることができない。ただ、夫人は二人の行く末を見届けなくては死んでも死にきれない、と思い、なんとしてでも生きのびようと決意する。ローランとテレーズは、互いに密告されるのではないかと恐れ、相手を殺そうとそれぞれ毒薬と庖丁を用意する。ついに決行の日、と思ったその時、二人は相手の目論みに気づいて一緒に毒薬を飲む。息絶えた二人をラカン夫人はただ見つめる。

 このような救いのない物語を、マルセル・カルネはどう映画に仕立て上げたのだろうか。小説との相違を挙げておくと、まずローランはカミーユの幼馴染ではなく、運送の仕事をする外国人である(イタリア語訛りがある)。次にカミーユは、テレーズとの旅の途中、汽車から落とされて死ぬ。さらに、汽車の中でローランとカミーユの争いを見ていた男がいて、のちにテレーズたちを脅してくるのだが、結末を決めるのはこの男である。小説はひたすら陰惨に、二人がどんどんおかしくなっていくさまを描くのだが、映画の方は松本清張っぽい展開で見る側を惹きつける。

 実は私は、小説を映画化した時、面白いのはほとんどの場合小説の方だ、と思っている。見るたびに「原作には勝てないよなあ」と感じてしまうのだ。しかしこの『嘆きのテレーズ』は、小説よりも面白いと感じた。先に挙げた「松本清張効果」もあるのだが、主演のシモーヌ・シニョレが素晴らしいのである。

 最初はただ叔母の言うなりに、病弱な夫をつまらなそうに世話するのだが、途中、これまでの人生をローランに語るあたりからだんだん感情が出てきて、そこから逃れるためには、という話になった時に「方法があるわ」と言う時の目つきが、いきなり悪役のマナザシに変わるのだ。このシーンで私はシモーヌ・シニョレを「素晴らしい女優さん」認定した。これは、『名前をなくした女神』でオノマチ演じるちひろさんが、主人公の息子であるケンタくんを連れ去ろうとしたときにこれまでとは別人のような顔になっていて驚愕したときの感動と少し似ている。そんなわけで、私はシモーヌ・シニョレのことを「フランスのオノマチ」と呼ぶことにした。

 映画では、「汽車の旅人」は二人に会いに来る前に「5時までに俺が帰ってこなかったら、この手紙を投函してくれ」とホテルのメイドに封筒を託す。そして待ち合わせ場所にやってきて、無事にお金を受け取り、「警察には何も言わない」という念書を書いて「やっと幸運が巡ってきた」とホクホク喜んで帰ろうとする。しかし、なぜかバイクのエンジンがかからない。と、そこに車が一台突っ込んでくる。「旅人」は巻き添えを喰らい、ローランは男を助け出すのだが、男は「手紙」と口走っただけで絶命する。何も知らないホテルのメイドは、5時を過ぎたのを見て手紙を出しに行く。そしてサイレンの音で映画は終わる。この結末には最後までハラハラドキドキさせられた。そしてシニョレの肝の据わった態度がまたよくて、じっくり楽しむことができた。

 シニョレの他の映画も是非見なくては、と思っている。


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