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日本の教育が作る枠についての小さな気づき

 大学生を見ていて、「昔以上に枠にはめられた教育を受けている!」と思うことが時々あります。今日はそのうち2つだけ書きます。

1)フランス語の少人数授業に、韓国人留学生のKさん(韓国人でKだったらあの苗字に決まってる!というツッコミはおいて)と、フランス人留学生が二人出席しています。少人数ゆえ、フランス語以外のこともあれこれしゃべったりします(授業の前に男子学生の前髪を切ったりもします)。先日、Kさんの日本語がうまい、という話から、Kさん自身が「日常の日本語では不自由しません」と言いました。私は当然だと思ったのですが、男子学生が「自分でそれ言えるってすごいな。日本人には言えない発想」というのです。思わず「なんで?」と訊いたところ、自分のことをそういうふうには言えない、という答えで、周りの女の子たちも同調して頷いていました。私の感覚では、「日常会話に困らないのだから、困らないと言えばいいだけのこと」と思うのですが、今の大学生は、こういうことさえ周囲に遠慮して、自分が突出しないようにしているようです。Kさんとフランス人二人と私だけで「困らないんだからそう言えばいい」と主張していました。
 このことから考えたのは、突出しないクセをつけていると、伸ばしたいことが伸ばせないのでは、ということです。ここが自分の本質、と思ったら、誰憚ることなくどんどん進んでいけばいいのに、つまらない遠慮をしているとそのチャンスさえ逃しそうな気がしました。

2)ある小テストをした時、一人の学生からクレームが来ました。試験範囲を逸脱している、というのです。フランス語で数字を聞き取る、という問題で、試験範囲を1~70までに定めていたところ、79を出してしまったのでした。ただ、言い訳ですが、79は70と9、と言えばいいので、70まで理解していれば聞き取りは可能で、問題ない、と思っていました。しかし、もちろん言い分も理解できるので、そこは全員に得点を与える、ということにしました。驚愕したのはここからです。その学生は、79は聞き取れたけれど、試験範囲ではないと思って書かなかった、というのです。この考え方にはびっくりしました。聞き取れたのなら単純に答えを書けばいい、と思うのですが、枠外のことは何一つしてはならない、という発想なのでしょうか。
 さらに驚いたことは、別の学生たちとの雑談でこのエピソードを紹介した時、「そういう場合は私も書きません。中学の時の定期テストで、範囲外から問題が出た時も書きませんでした」と言われたことです。余計なことを書いて点を引かれるのがイヤだそうです。範囲外から出したのは教員のミスなので、書かなくても点はもらえる、と思ったとのことです。点を引かれないことを第一に置く、ということは、少しでも何かから逸脱すると、自分が損をする、と思っているからで、このクセも、先ほどと同様、突出することを邪魔するのでは、と思いました。

 このように「突出しない」生き方ばかりを続けていると、どんなデメリットがあるだろう、と考えてみました。言うまでもなく、自分の能力を伸ばし切ることができません。また、自分にのことを必要以上に小さく見ることになってしまうでしょう。さらに、評価する他人に軸を置いて行動するため、自分が本当は何をしたいのかもわからなくなりそうです。その結果、本来持っている力を発揮することもなく、「なんとなく普通」で無難に生きて終わっていきそうな気がします。
 反対に、どんなメリットがあるのだろう、と考えてみると、「集団の中にまぎれることができる」ということでしょうか。

 この二つを並べた上で、あとは「自分の可能性を追求して周囲から浮きまくる」ことと、「自分の可能性を狭めて集団の中にまぎれる安心感」を比較して、どちらを選択するかを決めるだけだと思います。親や教師が「正解はこちら」とほのめかしたりしないことを願います。

 ところで、私は幼少期から背が高く、「集団の中にまぎれる」ということができませんでした。人と同じ、ということに価値を置かないのもこのせいかもしれません。体型が思考回路に影響を与えるなら、それもまた面白いことだと思います。

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