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カズオ・イシグロ「日の名残り」に描写される選挙と政治の話

 2017年にノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロの新作「クララとお日さま」が話題になっています。

 南島では保徳戦争に象徴されるような激しい選挙も有名ですが、今回はカズオ・イシグロ著作本の中から「日の名残り」に描写されている選挙と政治の話をご紹介したいと思います。

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 カズオ・イシグロの「日の名残り」では『品格』を意識しながら執事という職業を全うしていた執事のスティーブンスが日常を逸脱した旅に出るシーンが印象的ですが、その時々でこれまでの日常の懐古と旅先での風景や現実が織りこまれていきます。
 ある日の旅先でスティーブンスはモスクムという村で思わぬ一夜を過ごすことになるのですが、突然の来訪者に色めき立った村人の歓迎に戸惑わされます。

 その戸惑いとは主に「政治」にまつわるもので、政治意識が高い村人のミスター・スミスによってもたらされたものでしたが、スティーブンスはほうほうの体で『冷や汗をかき』ながらようやく『屋根裏部屋のプライバシーの中へ逃げもどることを許され』ます。

 夜が明けてスティーブンスは昨夜をふりかえります。

 たしかに、ある程度の真実は含まれておりましょう。イギリスのような国に住む私どもには、世界の大問題についても自分なりに考え、自分なりの意見をもつことが、多少は期待されているのかもしれません。しかし、現実の生活に追われている一般庶民が、あるゆる物事について「強い意見」をもつことなど、はたして可能でしょうか。ここの村人たちはみなもっている、というミスター・スミスの主張は、おそらく空想にすぎぬでしょう。一般庶民にそのようなことを期待するのは、とても無理というものです。さらには、望ましいことでもないように−私には−思われます。
“日の名残り (ハヤカワepi文庫) カズオ・イシグロ”

 そして、その戸惑う歓迎の場から『プライバシーの中へ逃げ戻る』きっかけを作ってくれたカーライル医師とのやりとりが描かれます。

「いったい、みんなでどんな話をあなたに聞かせていたんですか?村のつまらん噂話で退屈させたんでなければいいが…」
「とんでもございません、先生。話の内容はどちらかといいますと真剣なもので、たいへん興味深い意見もうかがうことができました。」
「ははあ、それはハリー・スミスでしょう?」医師は笑いながら言いました。「あの男の言うことは気にしないほうがいい。しばらく聞いているぶんには、なかなか面白いんだが、よく聞いていると支離滅裂でね。ときには、こいつ共産主義者かと疑いたくなるようなことを言うが、つぎの瞬間には、とんでもなくこちこちの保守主義者になる。要するに、支離滅裂ということですよ」
「それは面白いことをうかがいました」
「それで、昨夜は何の講義でした? 大英帝国ですか、それとも国民医療ですか?」
「昨夜のミスター・スミスは、もっと一般的な事柄を話題にしておられました」
「ほお…たとえば?」
 私は、一度咳払いをしました。「ミスター・スミスは、品格の何たるかについて話しておられました」
「そりゃ、また、えらく哲学的な話だなあ。ハリー・スミスがねえ? いったい、どうしてそういうことになったんです?」
「ミスター・スミスは、村で行っておられる選挙活動の重要性を強調しておられたのだと思います」
「ほお、それで?」
「モスクムの住民はあらゆる大問題について強い意見をもっておりますそうで、そのことを私に強調したかったのだと存じます」
「なるほど。そこまで聞くと、やはりいつものハリー・スミスだ。おそらく、あなたもおわかりになったでしょうが、それはまったくの嘘っぱちでしてね。ハリーがいつもあちこち駆け回っては、あの問題この問題でみんなを焚き付けようとしてるのは事実ですが、ほんとうのところはね、村人はみな放っておいてもらいたいと思っているんですよ」
 二人とも、またしばらく黙り込みました。やがて、私がこう尋ねました。
「こんなことをお尋ねしてよいものかどうかわかりませんが、すると、先生、ミスター・スミスは、村では一種の道化のように見られているのでございましょうか?」
「いや……道化というのはちょっと言い過ぎのような気がするなあ。村人もね、政治意識のようなものはもっているんですよ。ハリーにやいのやいの言われていることもあるんだろうが、たしかに、いろいろな問題について強い意見をもつべきだとは思っている。しかしね、本心は、ほかの村の人々と少しも違いはしないんだ。静かな生活がほしい。それだけですよ。ハリーに言わせれば、あれも変えるべきだし、これも変えるべきだ。いろんなことを変えるべきなんだが、村人は誰も騒ぎを望まない。たとえ、その騒ぎのおかげで、自分の生活がよい方向に変わるんだとしてもね。村人の望みは、放っておいてくれ、ですよ。自分たちの静かな生活を乱さないでもらいたい。あの問題やこの問題で悩ませないでほしい。それだけなんだ」
 私は、医師の言葉に入り込んできたうんざりした口調に驚きましたが、医師は短く笑って自分をとりもどし、話題を変えました。
“日の名残り (ハヤカワepi文庫) カズオ・イシグロ”

 私たちが政治に対してどのように接しているか、改めて考えるヒントになれば幸いです。

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