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来年も再来年も⑤母と私

心細いのが原因だろう。
入院には慣れている母が、早く家に帰りたいと頻繁に言うようになった。
食欲も落ちて、ベッド上でいつも不安そうにしていると病棟看護師も気にしてくれていた。
コロナ対策で面会制限があるため、これまでの入院のように長く傍にいることができない。
抗がん剤投与後の体調の変化が徐々に出てきて不安にならないほうが変だ。
担当医と話をして、外来通院で抗がん剤投与を行うことになった。
毎週金曜に外来受診して、隔週での投与スケジュールが組まれる。
それに併せて、私の金曜日の予定はすべて変更して空欄になった。金曜日は母の曜日にした。

採血結果がもう少し良くなるまで生ものは食べられないので、母の好物の刺身や寿司はしばらく口にできない。
ちょっと残念そうにしていたが、自宅に帰れることを母はとても喜んで退院の日を何回も何回も確認していた。

「僕らは最期まで、この笑顔をなくさせないようにする」
担当医が言ってくれた言葉だ。様々な場面で私の支えになった一言だった。
私も母を、母の笑顔を守ろう。

5月2日、母が帰ってきた。
自宅までの帰り道、助手席に乗っている母がとても嬉しそうに外の景色を見ていた。
私はそれを視界に捉えて、ここ数日で久しぶりに深く息ができている感覚だったのを覚えている。

自分の部屋で好きな服に着替えて、自分の持ち物に囲まれて、大好きなサスペンスドラマを見て、更に大好きなルルと過ごす。
楽しそうに笑ってラタンの椅子に腰かけている母を見ていると、なぜだかとても贅沢な気持ちになった。

退院後初めての外来受診日。
採血結果が良くなかった。一般的に7日間程で正常値に戻るはずの白血球や好中球が減少したままで、母の体は回復していない。
この状態で2回目の抗がん剤は打てない。
母は小柄なので薬剤が規定量だと多すぎるのだろう、との担当医の見解。少し分量を減らして体のダメージが回復できるよう工夫するとのことだった。
この日は採血をしただけで帰れたためか、担当医にも「また来週くるね」とにこやかに笑っていた。

初回の抗がん剤投与から10日程たった頃から母の髪が抜け始めた。
日に日に大量に抜ける。
母の部屋はベッドもカーペットも髪の毛だらけになった。
髪を洗う時が一番ひどくて母の入浴後、排水溝にたまった髪の毛を取る日が続いた。
本当に抜ける。排水溝の受け皿いっぱいに抜ける。

「てんちゃん、ごめんね」と母が言う。
あれこれ世話を焼く私を気の毒がっているのだと思う。
謝るようなことなど、ひとつもしていないのに。
「捨てるだけだから大変じゃないよ。これ全部くっつけてって言われたら困るけど」と笑い飛ばす。
つられて母も「えへへ」とお得意の笑顔で返してくれた。

1週間くらい抜け続けて、そのあとはピタっと止まった。
9割ほどの髪が抜けてしまい、ほんの少し抜けずに残った髪を見て母は
「キューピーちゃんみたいじゃない?」と笑っていた。
約束したかわいい帽子をプレゼントした。

外来での抗がん剤点滴は2時間ほどかかる。診察と待ち時間を入れると4時間半ほどを病院で過ごした。
車椅子に乗っている母のすぐ近くに座って、晩ご飯のメニューを相談したり、一緒にネットショッピングをしたり、ふたりとも居眠りしたり、そんなことをして診察までの時間を待っていたので退屈ではなかった。
母が点滴している間は、私は院外に出て仕事のメールを確認したり、出れなかった電話に折り返しをしたりしていると2時間などあっという間に経ってしまう。
母を迎えに行き、会計を済ませて自宅に帰る。
病院の玄関先にある自販機で、ぶどうのジュースをよく買った。
こんな金曜日をひと月ほど繰り返して、ようやく1クールの抗がん剤投与が終わった。

6月26日。抗がん剤の効果が出ているか、造影検査で評価することになっていた。
結果を待っている間、母はいつも通り来年や再来年の話を楽しそうにしている。
幸いなことに食事もしっかり取れていて、抗がん剤の効果なのか痛みが和らいできた様子だった。
加えて病識がないため、厳しい状態だと言う認識がない。
だから膵臓癌だと告知される以前と話す内容が変わらない。

「来年はコロナ落ち着いてるかな?温泉行きたいね」
「河川敷の花火大会はまた秋ごろにやるのかな?今年はないかもね。来年ルルと見ようかな」

そんなことを言っていたと思う。私は検査結果が気になっていて空返事ばかりだった。

診察室に呼ばれて結果を聞く。
抗がん剤の効果は見られなかった。
膵臓癌も転移性肝癌も進行していた。毎回ながら採血結果も良くない。
腎機能も弱っていて、心肥大もあった。神経難病だってゆっくりと進行している。
母の体はひどく傷んでいた。
こんな体で抗がん剤治療を耐えていたのか。
何の文句も言わないで。

母には何層にもオブラートに包んだ説明を担当医がしてくれた。
「抗がん剤どうしようか?このまま続ける?」
担当医が母に問う。
「抗がん剤はもうしたくない」
母ははっきりと言った。
抗がん剤投与後に3日間ほど続く体調の悪さが徐々につらくなっていたのは確かだった。
金曜日に投与したあとの土日はベッドに横になって過ごすことが多かった。
浮腫みもひどく、とにかく体が重くてだるいと訴えていた。その体の不調が耐え難くなっていたのだろう。母の思いは充分解っている。
だから、こんな状況で食事ができていたことと痛みが緩和したことは本当に幸運なことだった。

母は抗がん剤を打たないことが何を意味するのかちゃんと解っていない。
けれど、ボロボロに傷んだ体にできることはもう残っていない。
そんな母に現実をすべて話すことはどう考えてもできなかった。
無邪気に来年や再来年の話をしていてほしい。
髪が抜けてもキューピーちゃんみたいねって笑っていてほしい。
また同じ長さに伸びるまで長生きしてほしい。

生きるための手段として残された抗がん剤治療は、4月24日から慌ただしく始めて6月12日の投与を最後に終了。
これからは対処療法となった。

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