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黒猫りんの物語世界4

4、私の物語


ここに、私だけの物語がある。
取り巻く世界を、どう五感で感じているかというのを基礎に造られた、私だけの世界の物語。
それはある事件に会うまでは、正常に紡ぎあげられていた。
私はいまだに、その事件のもたらした苦しみに縛られている。
解き放つ方法も見つからない。
どうしたら、壊れるくらい辛かった出来事を、切り離すことができるというのだろうか。
果たして、私はなぜこんなになってしまったのか。
思い返したくないから、ふたをしていた部分が、あるいは、怪我を守っていたかさぶたが、はがされてしまったような痛みを、私は抱えている。

年が明けて、インターネットで知り合った、新しい彼女ができたりゅうちゃんは、とても幸せそうだ。
なぜか、私の知らぬ間に、にゃん太や奏子さんとも意気投合し、よく三人で語らっている。
私はことのほか体調が悪く、心の調子もよくないので、デイケアにもメリイにも、最近は、ちょこっとしか顔出しできていない。

そんな状況で正月も過ぎ去って、一月も後半。
久々にメリイに行くと、三人が走ってきて、私を囲んだ。
「りんにゃん、ここんとこ大丈夫にゃん?」
「何かあるなら、相談してね」
「そうだよ、りん。君ばっかり、誰にも何も、相談もしないでいるのは水臭いったら」
三人三様、心配そうに言い募る。
立ち話もなんなので、メリイの中に入り、いつものソファに私を挟んでりゅうちゃんと奏子さんが座り、にゃん太はそのそばのカーペットにクッションを置いて座った。
奏子さんが、いつもの微笑を浮かべた。
「ちょうどあなたの話題になっていたの。女子高時代、ずいぶん元気で面白い子だったのね」
「今のりんにゃんは、猫かぶってるにゃん」
怪しむにゃん太に、
「そんなこと。――もう、大人になっただけにゃん」
私は頬を膨らませる。
「ちょっとりゅうちゃん、私の何を話したの?」
詰め寄ると、りゅうちゃんは愉しそうに口の端をあげた。
「高校時代の、修学旅行での真夜中の面白い顔大会とか、いいだしっぺが君で、大い盛り上がったんだ。とか、そういう話をしただけだよ」
「なっ」
それは、確かに、私がいいだしっぺだったけど。
「真っ暗な部屋で、変な顔をして、下から懐中電灯をあてて、その瞬間を写真でフラッシュをたいて撮る。よくまあそんなこと、思いついたよね。面白かったなあ」
りゅうちゃんは、懐かしそうだ。
「私も参加したかったわ」
「俺もにゃん。いつかみんなでやるにゃん」
ノリのいい奏子さんとにゃん太が、いい大人なのにやりたがる。
奏子さんは言う。
「面白い顔大会の話は横において。それと、私たち四人で、どこかでかけたりしたいなって、そんな話も出てたのよ。これは、りんちゃんがいなくちゃ、始まらないでしょう?」
「みんな、私が来るのを待っててくれたんですか?」
三人はそうだと言う。
「りんちゃんはどこに行きたい?」
「最近一番気になっているのは、マグロがいっぱいいる水族館」
「ああ、臨海公園にある」
りゅうちゃんは頬を染めた。
「今の彼女との、初デートで行ったばっかりだよ」
「うーん。じゃあ別の場所がいいわねえ。りんちゃん、何か他にないかしら」
「そうですねえ」
四人で意見を交わしあい、日帰りで、箱根の温泉に行くことに決まった。
箱根なら、ちょうど日帰りの温泉もあり、地獄谷の観光、水族館に美術館に関所に、見どころもたくさんあり、ロープウェイやフェリーも楽しめる。それで日帰りもできるから、もってこいだ。
とはいえ、あまり無理のきかない病を抱えている私たちなので、水着で遊べる温泉施設と、彫刻の森に、行くことに決まった。
ついで、箱根湯本の駅には、たくさんのお土産屋さんがあるので、そこで買い物をして帰る予定だ。

私の体調が回復するのを待ってもらって、二月の半ば、ついに四人での温泉旅を決行。
朝早く出て、夕方までには帰る予定。
誰も遅刻することもなく、ロマンスカーで箱根湯本まで一直線。
バスで巨大な温泉施設に向かい、水着に着替えた私たちは、大小いろいろな種類の温泉を渡り歩いて楽しんだ。
それからまた、バスで彫刻の森に着くと、
「りんちゃん、かくれんぼしましょう?」
「りんが鬼で、僕ら三人を探し出して」
「思い思いの場所で待ってるから、ゆっくりよく考えながら探すにゃんよ」
三人はそう言って、私に後ろを向かせる。
「ええーっ?」
「うふふふ。今日は、りんちゃんとかくれんぼするために、ここまで来たのよ、私たち。これが今日のメインイベントなの」
「じゃあ、十数えたら、振り向いていいからにゃん」
「よーい、はじめ!」
りゅうちゃんの合図に合わせ、私は困惑しつつ声に出して十まで数えた。
振り返ると、もう三人はどこかに姿を消していた。

みんなどこに隠れたのだろう。こんなに広い場所で。
私は入り口でもらったパンフレットを手がかりに、ここには誰かが居そうだなと思う場所をあたることにした。
すると、目的地を目指している途中、赤と青の人の像が配列され、並んでいる躍動感のある作品の前で、思わぬ一人目を見つけ出した。
「りゅうちゃん! みーつけた」
「早かったねりん。もしかして僕が一人目?」
「うん」
りゅうちゃんは私に歩み寄り、残念そうに肩をすくめる。
「そっかあ。かくれんぼの目的は、今回は上手に隠れることじゃないから、いっか」
にいっと、猫のように笑う。
にゃん太がうつったようだ。
「りん、最近具合悪いの、僕のせいじゃない?」
「ええ? なんでりゅうちゃんのせいになるの?」
私が驚くと、りゅうちゃんは、ほっとした顔になる。
「ごめん。僕といることで、君が忘れようと努力している辛い体験を思い出させてしまうんじゃないかと」
「それはりゅうちゃんのせいじゃないし。大丈夫よ?」
よかった、と、りゅうちゃんは、はあーっと息を吐きだした。
寒さで白く見える。
「今日のかくれんぼはね、常日頃、君に言いたいと思っていたことを、ひとりずつ君に伝えようっていう主旨なんだ」
「どういうこと?」
「みんな、元気のない君に、伝えたい言葉があるっていうことなんだよ」
私は赤くなってしまう。
「そうなの? うれしいなあ」
「うん。りんの笑顔は、いいねえ!」
りゅちゃんは私をハグした。
「りん、そのまんまで、十分だよ。泣きたいときに泣いて、笑いたいときに笑って、元気なときは元気に、そうじゃないときはそれなりに。僕は君の姿からそう教わって、元気になれたんだ」
温もりを残して、りゅうちゃんは体を離した。
「君は僕を恋愛依存だって、言い当てたけど、僕はもうそれは仕方ないから、無理にやめないことにして、ここにいる。心に生まれてしまった不協和音はさ、君が苦手なものではない意味合いでの「愛情」だけが薬になると思ってる。それもとても些細な。友達だったり家族だったり、恋人だったり夫婦だったり。わざわざ口に出さなくても伝わるような、ただそばにあって、暖かいもの」
目を閉じて、微笑んだ。
再び目をあけると、目力のある黒目がちの瞳がやさしく揺らいで私を捉えた。
「君は、君自身の力だけで、再び立ち上がろうと努力してる。それは悪いことじゃないよ。でも、君を思っている人たちの力を、借りてもいいんだ。僕は家族と、もう取り返しのつかない状況まで自分を追いつめてしまった。後悔してるけど、仕方ない。君は、理解ある家族と、僕たちがいる。それは、忘れないでよね」
私がうなずくと、りゅうちゃんは私の肩をポンポンと叩いた。
「じゃあ、かくれんぼ、次の人を探しに行っといで!」 
背中を押して、私を送り出した。
「りゅうちゃんの言葉、胸に刻んだから!」
私は一度だけ振り向いてそういうと、手を振った。
りゅうちゃんも思い切り手を振り返した。

あの人はここにいるだろう、という場所に私は向かう。
有名なステンドグラスの塔。
想像しただけでも、似合うだろうなと、思った。
ステンドグラスでできた塔は、今日のようにいい天気だと、その内部は色ガラスの光で満ちる。
私はそこに、光のヴェールをまとったマリア様かと思わせる、気品ある女性を見つけた。
駆け寄ると、奏子さんは私のほうへと振り向いた。
見慣れたはずの姿なのに、眩しいくらい美しい。
「あら、見つかっちゃったわね。時間的に、二人目? それとも三人目?」
「二人目です。一人目はりゅうちゃん」
「そう。隠れるのが目的じゃなく、見つかるのが目的のかくれんぼだから、見つかった順番は関係ないけどね」
でも、にゃん太に負けたのは悔しいわ。と、笑う。
「奏子さん、光に包まれて綺麗です」
「ありがとう。うふふふ。それは、あなたも一緒よ? あなたはあたたかい光がよく似合う子」
お世辞を言う人ではないので、私はそういわれてとても嬉しかった。
「ねえ、りんちゃん。思っても、いいのよ。こんな病気になんかならなければよかったって。こんな目に合わせた奴が憎いって。私にはわかるの。りんちゃんはずうっと、そう思う心を殺して、その代わりに、誰かのことで笑ったり泣いたりしながら、ここにいるのが」
私は返す言葉が見つからない。
「一緒にいる誰かが心から笑ってくれるのは、すごくうれしいことだわ。自分の痛みを忘れられるくらい。でも、自分の心を置き去りにしたままじゃ、自分はどんどんおかしくなってしまうわ。そういうときは、自分の原点に戻ること。辛い思いを、辛かったんだねって、ちゃんと抱きしめてあげて」
私は盲点を突かれた。
泣きそうになると、奏子さんは微笑む。
「もしりんちゃんが一人でそれが難しいなら、私が手伝うわ」
奏子さんはおもむろに、私を抱きしめた。
「りんちゃんは、よく頑張っているわ。頑張りすぎるくらい。そして私は、あなたをとても大事に思っています。忘れないで。――うふふ。そういう風に、自分で自分にも、伝えてあげて。その心の大怪我は、見えないけど確実に、癒されていく。時間がかかるわ。でも、しっかりと、治るわよ」
まるで小さいとき、走って転んで泣いている私を、母が抱きしめてくれたような、懐かしい温もりが伝わってくる。
「精神の病で、一人きりで頑張っている人って、たくさんいるのよ。突き詰めれば、人はみんな一人だわ。だから誰かを必要とし、必要とされたいと願う」
奏子さんは、柔らかな声音で続けた。
「りんちゃん。あのお泊りの日、私のために、泣いてくれてありがとう。――私、忘れないからね」
奏子さんのやさしさが、辛いと悲鳴をあげそうだった私の全身を覆った。
ここ最近、回復するというイメージさえ沸かない、無気力にさいなまれていた私の心が、奏子さんのぬくもりで、変わっていく。
「奏子さん」
嬉しいのに、泣いてしまうのはなんでだろう。
奏子さんは、まるで私の本当のお姉さんみたいだ。
それくらい近しく、心が包まれるのを感じる。
奏子さんは、身を離して、ハンカチを取り出して、私の涙をぬぐってくれた。
「さあ、私の言葉は伝えたわ。残るはにゃん太ね。猫の像とかあれば、そのそばにいそうな気がするけど」
頑張って探してね、と、笑顔で見送られた。
私は少し、ぽーっとしながら、塔をあとにした。

最後のにゃん太は、広い森のいろんな場所を探したけれどいないので、もっとも奥のピカソ館まで足を延ばした。
「遅いにゃん!」
私がにゃん太を見つける前に、にゃん太が私を見つけ出した。
「にゃん太がこんなところにいるのは、意外すぎるにゃん」
「失敬にゃん。俺はこう見えて、芸術肌なんにゃよ」
にゃん太は自慢そうに胸をそらし、腰に手をあてる。
「ええ? 何かの創作活動でもしているのにゃん?」
「テレビの美術番組が大好きにゃん」
なんだ、それだけか、と、私は苦笑した。
「ちょ、今りんにゃん、俺を馬鹿にしたにゃん」
「だって。芸術肌だなんていうから、期待しちゃって。損したにゃん」
「くうう。――って、怒ってる場合じゃないにゃん。中、案内するにゃん」
にゃん太は私の先を歩いて、ピカソ館のなかに入っていった。
ずかずかと進んで、陶芸作品の並ぶ部屋で足を止めた。
そして唐突に語り出した。
「俺は退院して間もないころ、ちょうど今のりんと同じくらいのころ、離婚届と美香に関する取り決めの用紙だけ残り、すべてを失った。俺はこの悪夢みたいな人生が死ぬまで続くんじゃないかと思った。でも、この悪夢の世界でも、俺と同じように苦しむ仲間がいると知ってから、ここで生き抜くのも悪くないと思えるようになったんだ」
「そうなのか」
私もそうかもしれない。
にゃん太は、ピカソの陶芸作品を眺めまわして言った。
「悪夢にうなされながら、一人もがいているとき、何気なく、ふらっとここに来て。この陶芸作品のある場所で、強い衝撃を受けた。ピカソといえば絵画だと思っていたから。工芸を通してさえ、こんなにも自由に、自分を表現できるのはすごいってな。見れば見るほど、絵画以上に、子供の作品っぽいのに、どこか神々しくもあるだろ」
確かに、単純でかわいらしいのに、言われてみれば、神秘的なような気もする。
「ここの作品を見てると、芸術表現というか、人間のあらゆる表現というのは、たとえどんな方法を選んでも、個々の性質に従うものなんだなって、勇気づけられる」
そんなことを言うとは、にゃん太は私が思うより、芸術肌なのかもしれない。
「猫語じゃないにゃん太、なんて久しぶりね」
「おお、無意識だった。俺らしくもない。仕切りなおすにゃん」
こほん、と咳払いをした。
「りんにゃん。辛いかもしれないけど、辛いっていうのは、心が大きく変化しようとしているチャンスの時もあるにゃん。もっと君を取り巻く世界をよく見るにゃん。今こうして、君を思う仲間がいるっていうのはにゃん、君の日々のやさしさと努力が、君に繋げた縁にゃんよ」
「にゃん太」
「辛い思いを抱えている人へ、他人にできることなんて、限られてるにゃん。でもにゃん、嘘のない想いは、いつだってちゃんと、伝わっているものにゃん。真っすぐなりんにゃんの思いやりに、俺は救われたこともある。俺のこの言葉で、今のりんにゃんを救えるなんて思いあがってはいない。けれど、俺という存在があることで、少しでも助けになるのなら、力になれるように頑張るにゃんよ?」
「ありがとう」
私が心からそう告げると、にゃん太は照れ笑いをした。
「いいにゃん。君が辛い思いを抱えているのは知っている。りゅうも奏子も俺も、何かしてあげたくても何もできなくて、それがもどかしくて、今日は、こんなかくれんぼをしてみたにゃん。見つかった順に、出口で待つことになっているから、ずいぶん二人を待たせてる。早く行こうにゃん」
「うん」
照れくさいのか、私のほうをあまり見ずに、にゃん太は出口までの道のりを急いだ。

それから、日程どおり箱根の日帰り旅行は幕を閉じた。
私の心は、まるで乾いていたダムが満杯になった状態となり、これから生きていくための、強い勇気を三人からしっかりと受け取った。
救いはきっと、人との絆の中にある。
その逆もある、絶望を与えるのも人の間にあるものであれば、結局人は、人との間で、どんな風にもなっていく。
使う言葉、もらう言葉。
笑顔、泣き顔、怒る顔。
その場の雰囲気や仕草。
そういったものを紡ぎあげていって、その人独自の世界観が形作られていく。
自分の世界観以外から、ものを見るのは難しい。
それでも人と寄り添いながら、私たちは生きている。
私は、あの森で、友人たちから、最高の宝物をもらった。
それは、私のこれからの物語世界で、ずっと輝いて、導いてくれるだろう。

そして、狂気を超えて、自分の意志を取り戻した私は、また新たに、私の物語を紡いでいく力がある。
壊れてしまったのが心なら、再生しなければいけないのも心だ。
一度は壊れていても、心は心だ。
心だけは、死ぬまで自分のものだ。
私の物語は、私が紡いでいく。
心の糸を美しい色合いで染め、それが私の世界になっていくように。
大好きな友人たちと一緒に。
ときに一人で。
そうして、いつか織りなした布を、離れて見渡すことができたとき、笑ってありがとうを言えるように。

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